ホリショウのあれこれ文筆庫

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第780話 凛々しい美青年・北畠顕家

序文・公家であり武士でもある

                               堀口尚次

 

 北畠顕家(あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代南朝公卿・武将。『神皇正統記』を著した准三后(じゅさんごう)・北畠親房の長男。主著に『北畠顕家上奏文』。南朝従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍、贈従一位右大臣

 後醍醐天皇側近「後の三坊」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳で参議に任じられて公卿に登り、「建武の新政」では、鎮守府大将軍として義良親王〈後の後村上天皇〉を奉じて陸奥国に下向した〈陸奥将軍府〉。のち足利尊氏との戦い「建武の乱」が起こると、西上し、第一次京都合戦で新田義貞楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して「南北朝の内乱」が開始するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。「青野原の戦い」で幕将土岐頼遠を破るが、義貞との連携に失敗し直進を遮られたため、転進。伊勢経由で迂回して大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、「石津の戦い」で奮戦の末に幕府執事・高師直(こうのもろなお)の軍に討ち取られて戦死した。享年数え21歳。

 後醍醐天皇の御前で、眉目秀麗(びもくしゅうれい)な北斉(ほくせい)の皇族武将高長恭(こうちょうきょう)〈中国の皇族〉に扮して『陵王』を舞ったなどの芸能関係の逸話もある。死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社阿倍野神社が建設され、建武中興十五社となった。

 顕家は凛々しい美青年であったと後世に伝わるが、これは脚色された部分が強いだろうとされる。顕家の容姿に関する当時の記録では、『舞御覧記』の元弘元年に顕家が後醍醐帝の北山第行幸に供して陵王を舞った際の記録がある。これには顕家の容姿に関して、「形もいたいけして、けなりげに見え給いに〈幼くてかわいらしく、態度は堂々としている〉」とある。

 とはいえ、顕家は文武両道ともに優れた人物である。公家でありながらも武将として、足利尊氏といった当時の武家らと互角に渡り合えるほどの卓越した手腕と戦略眼を持ち合わせていた。また、若年ながらも奥州の結城・伊達といった諸勢力を従わせるほどの政治手腕も持ち合わせた。顕家は南朝軍総大将の新田義貞と同様に後醍醐天皇から期待された存在であった。また、戦国時代の大名武田信玄よりも先に「風林火山」の旗印を用いたとされる。