ホリショウのあれこれ文筆庫

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第743話 足利尊氏の肖像画論争

序文・教科書は正しい?

                               堀口尚次

 

 京都国立博物館所蔵の「騎馬武者像重要文化財〉」は、京都守屋家の旧蔵(きゅうぞう)〈昔から所有している〉だったことから、現在でも他の足利尊氏像と区別する必要もあって「守屋家本」とも呼ばれる。本像は江戸時代に松平定信編纂の『集古十種』で、尊氏の肖像として初めて紹介され、その後大正9年歴史学者黒板勝美が論文の中で改めて尊氏像という説を発表したことで定着した。しかし、昭和12年に美術史家の谷信一が早くもこの説に疑問を呈しており、昭和43年にも、古文書学者の荻野三十七彦が尊氏像説を否定する論考を発表している。それらの論拠とは、主に以下のようなものである。

①画像上部に書かれた花押(かおう)は、2代将軍義詮(よしあきら)のものである。父の画像の上に子が自らの名を記すのは、即ち親を下に見ていることになり、当時の慣習からして極めて無礼な行為となるため、有り得ない。

②出陣時の整った姿ではなく、兜のない髻(もとどり)の解けたざんばら髪の頭、折れた矢、抜き身の状態の刀など、征夷大将軍という武将として最高位の人物を描いたにしては、あまりにも荒々しすぎる。

③刀や馬具に描かれている輪違(わちがい)の紋が、足利家ではなく高家(こうけ)の家紋であり、像主は高師直(こうのもろなお)、もしくは子師詮(もろあきら)、師冬(もろふゆ)である。

 こうした動きがあることから、2000年代頃から学校の歴史教科書では尊氏像として掲載されなくなり、「騎馬武者像」として掲載されるにとどまっている

 反面、『梅松論』における多々良浜の戦いに臨む尊氏の出で立ちが本像に近く、京都に凱旋した尊氏がこの時の姿を画工に描かせたという記録が残る ことから、やはり足利尊氏像で正しいとする意見もある。『太平記』によると、尊氏は後醍醐天皇へ叛旗を翻す直前に寺に籠もって元結を切り落としたといい、「騎馬武者像」の「一束切(いっそくぎり)」のざんばら髪は、その後翻意して挙兵した際の姿を髣髴(ほうふつ)とさせるものではあり、その点をもって尊氏像と見なされてきたと考えられている。『太平記』では挙兵の際に味方の武士たちがみな尊氏にならって元結を切り落とした逸話も伝えている。