序文・みんなで仲良く使うがええがや
堀口尚次
正村竹一は、日本の実業家。パチンコの正村ゲージの考案者。パチンコの父・パチンコの神様・現代パチンコの生みの親と称される。
正村ゲージとは、第二次世界大戦後、名古屋市西区で遊技場を経営していた正村商会の正村竹一が、1948年頃に考案したパチンコ台のゲージ構成のこと。
それまでのパチンコ台は入賞口が多く、バラ釘〈盤面に釘を均等に打ち込んだもの〉のみで構成されており、正村もそのような台を製造して営業していたが、1948年頃に入賞口を減らして釘の並び方に新たな工夫をした台を考案した。現在のパチンコ台にも見られる天釘、ヨロイ釘、ハカマなどの釘の並び方は、全てこの正村ゲージが原型である。ほかにも、玉を受けて回転する「風車」や、いわゆる「チン、ジャラ」と呼ばれる賞球のベルを導入したのも正村である。
当時のパチンコ台は手打ちであり、この台では玉を打ち込む場所によって入賞口に入る確率の変化が顕著だったため、プレイヤーの技術の上達や工夫を促した。また、従来より盤面に空間が多いため、玉の突飛な動きが増えた。これらにより大衆の人気を集め、正村の遊技場は連日満員の盛況となった。これを見た名古屋の他の遊技機メーカーも正村式を採用したパチンコ台を大量生産したため全国に普及し、正村ゲージがパチンコの主流となった。また、それとともに名古屋はパチンコ生産台数の約8割を占める一大生産拠点となっていった。
考案者である正村はゲージ構成を特許申請せず、他の業者が同様のゲージを使用する事を容認していた。このため知名度の割には金銭的な恩恵はあまり受けていないものの、後に主流となるパチンコ台の構成の源となったため業界に大きく名を残すことになる。
仮に特許申請していれば天文学的数字の財産を築いた可能性もあるが、逆に絶頂期には30兆円産業とまで呼ばれるに至ったほどのパチンコの隆盛は成し得なかったであろうとも言われている。
正村ゲージの特許を取らなかった理由として、”当時は特許料が要らないほど儲かっていた””忙しすぎて書類作成が煩雑だった”という説があるが、正村自身が独占をせず、良い物は真似るべきという考えだったというのが定説になっている。「みんなで仲良く使うがええがや」と言っていたとされる。