序文・北陸での活躍が有名
堀口尚次
佐々成政(さっさなりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚(しゅろ)。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子〈本理院・徳川家光正室〉の外祖父。
佐々氏は尾張国春日井郡比良城〈現在の名古屋市西区〉に拠(よ)った土豪で、元々は織田信康に属していたとされる。佐々氏は宇多源氏近江佐々木氏の庶流で、尾張国に移り斯波氏の、ついで織田氏の家臣になったと思われる。そのほかに上総国佐々庄から尾張に移ったとする説、藤原氏出身説、菅原姓を名乗ったとする説がある。北陸の武将で有名な成政は、現在の名古屋市西区生まれになる。
天文19年、織田信長に仕える。兄に政次、孫介がいたが、成宗の次男・孫介が弘治2年の稲生の戦いに武者大将として出陣し奮戦するも29歳で討死、長男・政次も永禄3年の桶狭間の戦いで討死にするなど兄弟が相次いで亡くなったため、永禄3年に父・成宗から家督を継ぎ、比良城主となる。25歳であった。
天正8年以降、神保長住の助勢として一向一揆および上杉景勝に対する最前線であった越中国平定に関わった。同年秋には治水事業にも着手し、富山城下を守るために現在の富山市内を流れる常願寺川沿いに「佐々堤」と呼ばれる堤防を築いている。天正9年正月下旬から2月下旬頃、成政は富山城に入城する。
天正15年の九州討伐で功をあげたことを契機に、その後の九州国分では肥後一国を与えられた。秀吉は早急な改革を慎むように指示したとも言われるが、病を得ていた成政は、早速に検地を行おうとするが、それに反発する隈部親永(くまべちかなが)を中心とする国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった。天正16年2月、成政は謝罪のため大坂に出向いたが、秀吉に面会を拒否され尼崎に幽閉される。秀吉は安国寺恵瓊(えけい)〈僧侶武将〉による助命嘆願に耳をかすこともなく、加藤清正を検使として、成政の切腹を命じた。切腹の時、短刀を横一文字に引いたあと、臓腑をつかみ出して天井に投げつけたといわれる。
傍流〈実姉〉の子孫として、徳川光圀に仕えた佐々宗純、元内閣安全保障室室長の佐々淳行〈連合赤軍あさま山荘事件の警察庁警備幕僚長〉などがいる。