ホリショウのあれこれ文筆庫

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第884話 沓掛城と提灯山

序文・桶狭間の戦いの影で

                               堀口尚次

 

 沓掛(くつかけ)城は、尾張国愛知郡沓掛、現在の愛知県豊明市沓掛町にあった日本の城。 沓掛の地は、北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差する場所にあり、交通の要衝といってよく、その抑えとして古くから城館があったとしてもおかしくはない地形である。

 室町時代を通じ、近藤氏が沓掛城主となっていたことは確かである。戦国時代に入り、9代目の近藤九十郎景春松平広忠〈家康の父〉の家臣となっていた。天正10年頃より尾張国中に織田信秀〈信長の父〉の勢力が強くなり、しばしば三河へ出兵するようになると、近隣の土豪とともに信秀に追従した。しかし、天文20年の信秀死後は二転して、鳴海城主山口教継(のりつぐ)・教吉(のりよし)父子とともに今川義元の傘下に入った

 永禄3年、駿河遠江三河の兵約2万5千の大軍を率いた今川義元は、5月18日、池鯉鮒(ちりゅう)〈現・知立(ちりゅう)〉を出立して沓掛城に入った。この時の城主は近藤九十郎景春であった。ここで義元は軍評定を開き、大高城への兵糧入れや各武将の部署の再確認を行ったものと思われる。翌19日朝、義元は本隊を従え沓掛城を出発した。一説にはこの時、義元は落馬し、側近があわてて輿(こし)に乗り換えさせたという。その後、義元は大高道を通って桶狭間に入り、運命の桶狭間の戦いに遭遇するのである。

 今川義元が戦死して今川軍が駿河へ退いたため、城主近藤九十郎景春沓掛城に戻り、刈谷城攻めを行ったりしたが、5月21日、織田勢により城攻めを受け落城、景春は討死して近藤氏による支配は終わった

 ※以下「広報とよあけ」より抜粋『豊かな自然に恵まれ田園地帯の広がる沓掛地区。ここには桶狭間の戦いの痕跡を示す地名として「提灯山」〈沓掛城址の北東約200m付近〉があります。体験型の文化財講座の一環として提灯山一帯に明かり〈LEDライトの提灯、竹あかり〉を灯し、地元の地名として伝わる当時の様子を再現します。桶狭間の戦い今川義元が討たれ、今川軍が総崩れとなって撤退する中、沓掛城主近藤九十郎景春が押し寄せる織田軍に対抗して味方の数を多く見せるためたくさんの提灯を灯した場所と伝えられています。』