ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第688話 信長を困らせた花井播磨守信忠の末路

序文・今川と織田の狭間で

                               堀口尚次

 

 筆者の地元愛知県知多市にある丘で、地元の人が天王山と呼び、山頂には津島神社が祀られている場所がある。そこは、かつて室町時代から戦国時代にかけて、花井氏の堀之内城〈寺本城〉がそびえていた。
 堀之内城は別名「寺本城」「青鱗(せいりん)城」とも呼ばれていた。この青鱗城の名前の由来は、天守閣の鬼瓦が青銅の鱗形(うろこがた)をしており、夕日に映えて伊勢湾を通る舟からよく見えるところから付いた名であると言われている。
 堀之内城主花井氏は、16世紀に寺本を中心に勢力を張った土豪であり、駿河の今川氏にくみしていた。尾張知多半島〉を虎視眈々と狙っていた今川義元は、東浦に砦〈村木砦〉を築き織田信長への対抗心をあらわにした。織田方に与(くみ)していた東浦・緒川城主の水野信元〈於大の方の兄〉は、信長に援軍を要請するが、この要請の陸路を絶ったのが花井信忠といわれている。困った信長は熱田から船に乗り海路を使い、知多の浜から知多半島に上陸し水野忠信の援護についた。こうして東浦で「村木砦の戦い」が勃発するが、今川義元は負けて退散することになる。これがいわゆる「桶狭間の戦い」の前哨戦といわれている。

 村木砦の戦いに勝利した信長は、知多寺本の堀之内城を攻め、城下は戦火に遭い、大きな被害を受けた。信忠は落ちのびて長野方面へ逃げた。戦火も鎮まると信忠は住みなれた温暖な知多へ戻ってきた。信忠は今の大府市の吉田 のあたりに居を構え農に帰った。もともと体力もあり、頭の働きも優れていた信忠は、百姓として大 いに手腕を発揮した。

 堀之内城址近くの、花井氏の菩提寺・大祥院に「花井播磨守信忠公五輪塔」の塚がある。石碑には『ここから北西の山の中腹に丸石を積み上げられた五輪の塚があった。桶狭間合戦に負け城は焼かれ一族はちりぢりばらばらに逃げ花井当主は堀之内城下の燃える様をその場所で手をかざして見られたとの言い伝えがある。時の流れで塚のまわりには段々畑が出来、近くの畑の人が土手を焼き、桜と松の大木もいつしか燃え一米位のくさった木株があった。その後中学校の候補地となり山を切り開くとき土砂の下敷きとなり二名の方が犠牲となられた。塚の場所は現在プールとなったその約三米西の中学校石垣前あたりと記憶する。城跡は堀之内中央あたりに小山の丘があった。五輪塔は寺へ持ち込まれ放置されていたので、此の場所に安置する』とある。