ホリショウのあれこれ文筆庫

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第840話 三法師こと織田秀信の生涯

序文・秀吉に翻弄された信長の孫

                               堀口尚次

 

 織田秀信は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫岐阜城主。織田政権三代当主。官位は正三位中納言岐阜中納言とも呼ばれた。

 天正8年、織田信忠の長子として生まれた。幼名は三法師。母・徳寿院はの塩川長満の娘、森可成の娘、あるいは武田信玄の娘・松姫とも。

 天正10年の本能寺の変の際、父・信忠の居城岐阜城に在城していたが、保護されて清州城へと避難した。同年、清須会議において羽柴秀吉の周旋(しゅうせん)〈とりもち〉により、わずか3歳で織田弾正轄忠家の家督を相続し、直領として近江国中郡20万石を得る。代官は堀秀政が務めた。この際の決定で安土城に移ることになったが、叔父の織田信孝によって岐阜城に留め置かれた。これを発端として、秀吉と信孝は干戈(かんか)〈戦い〉を交えることとなった。信孝が敗れて降伏した後は、一応の整備がなった安土城仮屋敷へ移り、織田家家督代行となった織田信雄の後見を受けた。

 織田氏家督継承は織田政権の解体と豊臣政権の確立の過程で複雑な経緯を辿っている。天正12年に羽柴秀吉織田信雄が対立すると、三法師は安土城から近江国坂本城、次いで京都の秀吉の下に移された。同年11月に秀吉と信雄が講和をする〈小牧・長久手の戦い〉と、政治的立場を逆転させた豊臣秀吉羽柴秀吉〉は信雄に対し織田家家督を正式に認め、三法師は再び坂本城に移された。そして関ケ原の戦いでは石田三成に従い西軍についたが、苦戦し岐阜城に籠城している。岐阜城落城後の秀信は、上加納の浄泉坊で剃髪して、父方の祖母の郷里である尾張小折生駒屋敷に移った後、生駒家の領地であり父方の叔母である徳姫も一時期滞在した尾張知多へと送られた。

 改易された秀信は高野山で修行を積むことになったが、祖父・信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、迫害を受けた。高野山から出て、山麓に住む。追放ともされる下山の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説があるが、秀信自身は仏教を迫害したことはなく、高野山追放は祖父のとばっちりであるとする説もある。健康を害していたための下山療養とも考えられるが、死因は自害であるとも伝わる。享年26。

清須会議で三法師を擁する羽柴秀吉