ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第532話 ハワイ諸島ニイハウ島事件

序文・不時着した零戦

                               堀口尚次

 

 ニイハウ島事件は、昭和16年12月7日〈日本時間12月8日〉に、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃に加わった空母「飛龍」所属の零式艦上戦闘機が、ハワイ諸島ニイハウ島不時着して起きた一連の出来事操縦士西開地(にしかいち)重徳(しげのり)一飛曹は、一旦は日系アメリカ人2世の原田義男に救助され匿われたものの、住民に地図や拳銃を奪われ、取り戻すために戦ったのち、西開地は殺害され原田は自殺した。なお、島民にも負傷者が出た

 大日本帝国海軍の軍令部情報では、ニイハウ島は牛の放牧場で管理人は日本人3名、土人労務者約20名がいるが白人は1人も居住していないと記されていたため、昭和16年12月に行われたナ南雲機動部隊の真珠湾攻撃に際して、ニイハウ島を真珠湾攻撃時に損傷を受けた航空機の緊急着陸地として、さらにパイロットを潜水艦によって救出するための集合地点として指定されていた。

 12月7日〈日本時間12月8日〉、日本海軍の空母「飛龍」〈第二航空戦隊〉に所属する西開地重徳一飛曹は、真珠湾攻撃の第二波攻撃に参加した。オアフ島の飛行場を襲撃中に空戦に巻き込まれて行方不明となり、自爆認定された。実際には、西開地はニイハウ島の野原に不時着していた

 現地住民によって戦闘機用の通話暗号表の入った用具嚢を持ち去られたため、キャンプに放火することで西開地らは暗号表の隠滅を図った。その後、放火を知った現地住民の前から逃走し、山中で拳銃を用いて自殺した。現在の通説は現地住民が米軍当局からの褒賞欲しさについた虚偽の証言であるとの見解も存在するが、島民に負傷者が出ているのは事実で、3発撃たれてなお格闘するのは不自然で、実際の怪我の程度については疑問の余地はあるものの、事実は概ね通説通りだというのが大勢である。

 西開地の故郷である愛媛県波止浜〈現在は今治市の一部〉には、花崗岩の柱が建てられている。その柱には、事件の物語と、彼は「戦闘」で死に、「彼の功績は永遠に続く」と刻まれている。

 西開地の零戦の残骸は、真珠湾のフォード島のアメリカ海軍基地内にある「太平洋航空博物館」内に展示されている。