ホリショウのあれこれ文筆庫

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第529話 真珠湾攻撃の航空参謀・源田実

序文・航空自衛隊育ての親

                               堀口尚次

 

 源田実明治37年 -平成元年は、海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍での最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。航空自衛隊の育ての親。政治家としては参議院議員を4期24年務めた。赤十字飛行隊の初代飛行隊長を務める。

 昭和16年2月、源田は第十一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎から呼び出され、連合艦隊司令長官山本五十六からの手紙を見せられて真珠湾における雷撃の可能性を聞かれた。源田は「雷撃は専門ではないから分かりかねるが研究あれば困難でも不可能ではない、できなくても致命傷を与えることを考えるべきである。空母に絞れば急降下爆撃で十分である。問題は接近行動にある」と回答する。 大西から作戦計画案を早急に作るよう依頼され2週間ほどで仕上げ提出した。 源田によれば素案の素案程度のものであったという。それに大西が手を加えて作案し、3月初旬ごろ山本に提出された。

 源田と先任参謀・大石保大佐に真珠湾奇襲作戦実行計画の完成が命じられた。最初の攻撃案は攻撃隊を発進させながら空母は後退して離脱するものだったが、源田は「攻撃隊が決死の攻撃を行うのに母艦が逃げ腰では士気にも関わる」と反対し、接近しながら攻撃隊を発進させ、帰還機をできるだけ回収する案に変更させた。 11月下旬、南雲機動部隊各艦は択捉島単冠(ひとかっぷ)湾に集結する。源田は任務達成上のことで頭がいっぱいで今度こそ生きて帰ることはないだろうと覚悟したという。終戦後、正規海軍将校のため公職追放となり民間企業の社長となる。その後防衛庁航空幕僚監部装備部長として、航空自衛隊に入隊する。

 昭和34年7月18日、航空幕僚長就任。12月、米空軍サンダーバーズの日本公演を見た源田は航空自衛隊によるブルーインパルスの構想を打ち出す。

 その後参議院議員を経て、昭和61年に引退。旧海軍勤務が24年だったことから「これ以上やれば海軍に義理がたたない」という理由からだった。引退の弁は「足るを知れば恥ずかしからずとどまるを知れば危うからず」「腹八分目」「物事はほどほどに」であった。コメントを求められると悪口も言えんと言葉は少なかったが国防に関しては「海外派兵はやらない、原子力潜水艦は作らない、それで通りますか」と語った。