ホリショウのあれこれ文筆庫

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第929話 築城名人・藤堂高虎

序文・餅の縁故

                               堀口尚次

 

 藤堂高虎(とうどうたかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。津藩藤堂家〈藤堂家宗家〉初代。黒田孝高加藤清正と並び、「築城三名人」の一人と称される。数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない。また外様大名でありながら徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する実力を持つ、異能の武将であったといえる。

 高虎の政治思想は、豊臣秀長の周辺に結集した当代きっての文化人の影響を受けている。その筆頭が千利休であり、秀長の重臣達は、利休や利休の高弟達と交流し、茶湯をはじめとする室町時代以来の伝統文化を担う素養を磨き、それをもとに政治的な才覚を研ぎ澄ました。

 三大築城名人の1人と言われるほどの城郭建築の名人として知られ、慶長の役では順天倭(じゅんてんわ)城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し、幕府の天下普請で伊賀上野城丹波亀山城などを築いた。本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。

 講談、浪曲藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉(あつじ)氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎〈当時は与右衛門〉が空腹のあまり、三河吉田宿〈現・豊橋市〉の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、そのことを店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪した。だが彦兵衛に「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物(さしもの)は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。なお参勤交代の際の主人は三代目中西与右衛門というもので、彼の先祖は織田信長に清州屋として仕え、本能寺の変の後吉田宿で酒問屋を始めたという。