ホリショウのあれこれ文筆庫

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第940話 大奥を整備した春日局

序文・老中を上回る権力

                               堀口尚次

 

 春日局(かすがのつぼね)/斎藤福(ふく)〈天正7年 - 寛永20年〉は、安土桃山時代から江戸時代前期の江戸幕府3代将軍徳川家光乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。父は美濃国の名族・斎藤氏〈美濃守護代〉の一族で明智光秀重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通〈一鉄〉の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘阿牟(おあむ)、養父は稲葉重道。稲葉正成の妻で、正勝・正定・正利の母。養子に堀田正俊江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱柳生宗矩(むねのり)と共に家光を支えた「鼎(かなえ)の脚」の一人に数えられた。また、朝廷との交渉の前面に立つ等、徳川政権の安定化に寄与した。

 福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代後の家光〉の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年に老中に就任、寛永9年には相模国小田原藩主となった。

 家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・お江与の下で大奥の公務を取り仕切るようになる寛永3年のお江与の没後からは、家光の側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であったお万や、お蘭〈お楽の方〉、お振、お夏、お玉、お里佐、おまさなどを次々と奥入りさせた。また、大奥の役職や法度などを整理・拡充するなど、大奥を構造的に整備した。将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。

 寛永6年には、家光の疱瘡(ほうそう)治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。しかし無位無官の武家の娘という身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり〈福は三条西公条(きんえだ)の玄孫になる〉、育ての親でもある三条西公国(きんくに)の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西実条(さねえだ)と猶妹(ゆうまい)の縁組をし、公卿三条西家〈藤原氏〉の娘となり参内する資格を得、三条西 藤原福子として同年、後水尾(ごみずのお)天皇中宮和子(まさこ)に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号、及び天酌御盃をも賜る。その後、寛永9年の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴(ひばかま)着用の許しを得て、再度天酌御盃(てんしゃくごはい)も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子北条政子に比肩(ひけん)する位階となる。