ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第800話 幻の第11代将軍・徳川家基

序文・骨肉の争い

                               堀口尚次

 

 徳川家基(えいもと)は、江戸幕府第10代将軍・徳川家治(いえはる)の長男。将来の第11代将軍として期待されていたが、急死した。徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の通字(とおりじ)〈諱〉を授けられながらも将軍位に就けなかったため、「幻の第11代将軍」とも呼ばれる

 家治と田沼意次(おきつぐ)の推薦で側室となったお知保の方〈連光院〉との間に生まれる。生後まもなく大奥女中の広橋の願いもあり、男子のいなかった家治の御台所・倫子(ともこ)の養子となって成長した。幼年期より聡明で文武両道の才能を見せる。成長するにつれ政治にも関心を持ち、参画する姿勢を表し、老中・ 田沼意次の政治を批判している。

 しかし安永8年、鷹狩の帰りに立ち寄った品川の東海寺で突然体の不調を訴え、3日後に死去した。享年18〈満16歳没〉。自らの後継ぎを失った父・家治は、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだという。家基の死により、家治の子で存命の者はなくなり、家治はそれ以後、死去するまで子を儲けることはなかったため、家治の血筋は断絶することとなった。

 その突然の死は、家基の将軍就任によって失脚することを恐れた意次による毒殺説、嫡男・豊千代後の徳川家斉(いえなり)に将軍家を継がせたい一橋家徳川治斉(はるさだ)による毒殺説など、多くの暗殺説を生んだ。一方で幕末に来日したドイツの博物学シーボルトは、家基がオランダから輸入したペルシャ馬に騎乗中、落馬事故を起こして死亡したと記述している。

 家基に代わって第11代将軍となった家斉は、晩年になっても家基の命日には自ら墓所に参詣するか、若年寄を代参させていた。血縁関係の遠い先代将軍の子供にここまで敬意を払うのは異例である。なお、家基の生母である蓮光院は家斉の将軍在任中の文政11年に、没後30年以上たって従三位(じゅさんみ)を追贈されているが、将軍正室〈御台所〉将軍生母以外の大奥の女性が叙位された例は珍しい。

【総括】このころになると、徳川宗家は家康からの直系〈将軍の嫡男〉の血筋は途絶え、御三家や御三卿などから将軍を擁立することになっていた。また老中などが御三卿などとの血筋もからみ、文字通り「血みどろの将軍継嗣問題」となっていたようだ。いわゆる骨肉の争いを呈していたのだ。