ホリショウのあれこれ文筆庫

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第799話 神風特攻隊創始者・大西中将の信念

序文・昭和の白虎隊

                               堀口尚次

 

 大西瀧治郎明治24年 - 昭和20年〉は、日本海軍の軍人。海兵40期。神風特別攻撃隊創始者の一人終戦時に自決。最終階級は海軍中将。

 昭和20年8月16日、渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し、「介錯無し」で割腹自決した。午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸(くび)と胸を刺したが生きていた。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉誉士夫〈右翼活動家〉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園〈厚木航空隊事件=進駐軍阻止の徹底抗戦派の首謀者〉に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と諫めた。介錯と延命処置を拒み続けたまま同日夕刻死去。享年55。

 終戦の混乱で海軍からは霊柩車はおろか棺桶の手配すらなく、従兵が庭の木を伐採して棺桶を自作した。霊柩車は結局手配できず、火葬場には借りてきたトラックで運ぶこととなった。

 遺書は5通あったとされる。「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般青壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。別紙には富岡定俊軍令部第一部長に宛てた添え書きがあり「青年将兵指導上の一助ともならばご利用ありたし。」とあった。妻淑恵に対する遺書には、全て淑恵の所信に一任すること、安逸(あんいつ)をむさぼらず世のため人のため天寿を全くすること、本家とは親睦保持すること、ただし必ずしも大西の家系から後継者を入れる必要はないこと、最後には「これでよし 百万年の 仮寝かな」と辞世の句があった。また、辞世の句として友人に当て、「すがすがし 暴風のあと 月清し」と詠んだ。特攻隊員の戦死者名簿には大西の名も刻まれた。

 大西は神風特別攻撃隊創始者であるとされるが、神風特攻隊以外も含む「特攻の生みの親」とする見方については、第一航空艦隊長官になる以前から特攻の支持者であったという認識に支えられているという見方とそれ以前に特攻は中央で研究されているので誤りとする見方がある。これについて、神風特攻隊に関しては、中央の研究する特攻とは別物であり、大西から中央に事前報告はあったが、神風特攻隊は大西独自の動きであったという反論がある。研究者の中には、捷(しょう)一号作戦で特攻が開始されるに至るまでの事実関係から、実際には既に海軍軍令部で特攻を行う総意が形成されていて、大西がその推進者役として調度いいとしてフィリピンに派遣され、戦後直ちに自決したため、死人に口なしと全ての責任を押し付けられたものと見る者も多い。

 昭和20年8月13日東郷外相と豊田・梅津両総長が会談しているところに押しかけ、「二千万の日本人を特攻として用いれば負けはしない」と具申している。これが有名な大西の「二千万人特攻発言」である。この戦争末期の海軍軍令部次官時代、会議等ではしきりに「一億総玉砕」と言うようになっていったという。また、台湾で大西の副官であった門司によれば、大西は台湾時代の訓示では「日本人の1/5が戦死する以前に、敵が先に参ることは受けあいだ」と述べたという。そのため、当時の日本内地の人口が7千万であったことから、大西の「1400万人特攻論」とされる場合もある。なお、この台湾時代の大西の訓示につき、大西は戸川幸夫記者に「二千万人死ななきゃダメだ」と答えたともいうが、あくまで訓示の内容であり、死者数は「日本人の1/5」としていたとする説、「日本軍の1/5」としていたとする説等がある。

 猪口力平によれば、大西自身は特攻は「統率の外道」と考えていたという。ただし、この言葉は猪口が中島正との共著で出した『神風特別攻撃隊』に書かれているもので、特攻隊員の自己犠牲を美化し、特攻の実施に携わった猪口自身らの責任を曖昧にする要素があり、聞いた者が猪口のみである以上、どこまで事実か不明である。また、当時の機材や搭乗員の技量で普通の攻撃をやっても敵の餌食になるだけとして、体当たり攻撃をして大きな効果、戦果を確信して死ぬことができる特攻は、若者に死にどころを得させる大愛、大慈悲であると、大西は主張していたという。大西は特攻が始まる当時よく「青年の純、神風を起こす」と筆を揮い、猪口力平によれば「日本を救い得るのは30歳以下の若者である。彼らの体当たりの精神と実行が日本を救う。現実の作戦指導も政治もこれを基礎にするべきである。」と語ったという。副官門司親徳に「棺を覆うて定まらず百年の後知己を得ないかもしれない。」と語ったという。福留繁によれば、大西は「日本精神の最後の発露は特攻であり特攻によって祖国の難を救い得る」と確信していたという。

 台湾で戸川幸夫毎日新聞および当時夕刊紙として設けられた東京日日新聞の従軍記者、のちに作家〉から「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか?」と質問された大西は「勝てないまでも負けないということだ」「いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。勝敗は最後にある。九十九回敗れても、最後に一勝すれば、それが勝ちだ。攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。戦争はドロンゲームとなる。これに持ちこめばとりも直さず日本の勝ち、勝利とはいえないまでも負けにはならない。国民全部が特攻精神を発揮すれば、たとえ負けたとしても、日本は亡びない、そういうことだよ」と答えている。これは実際には昭和20年3月台湾時代に大西がガリ版でも航空隊に配った訓示の内容で、それを東京日日新聞の戸川記者や東京新聞の中田記者が内容に驚き、検閲を受けずに送稿、内地の新聞さらに現地台湾の新聞に転載されたものを指すと思われる。これは一航監の司令部で問題視され、一時は両名の処分問題にも発展したが、大西自身が事実上問題にせず、ことなきを得たとされる。

  後藤基治〈大阪毎日新聞記者〉から特攻を続ける理由を聞かれた大西は「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか。ひとつの藩の最期でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれぬ」「ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」と答えた。

 昭和49年には大西に勲一等旭日大綬章叙勲の沙汰があり、淑恵〈未亡人〉がこれを受け取った。その後、昭和52年に病により入院した淑恵は「この勲一等旭日大綬章は大西だけに賜られたものではなく若い特攻隊の方々の代表として賜られたものと思います。大西はつけることができませんから、皆さんが胸につけて写真を撮ってください」と寄贈し、陸上自衛隊土浦駐屯地内の予科練記念館に展示されている。