ホリショウのあれこれ文筆庫

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第798話 「ジュリアおたあ」の信心

序文・戦国の世に咲いた花

                               堀口尚次

 

 ジュリアおたあは、安土桃山時代朝鮮人女性文禄・慶長の役朝鮮出兵の際に日本に連行され、のちにキリスト教に改宗して、現代に伝わる洗礼名「ジュリア」を得て、日本名「たあ」と合わせて「ジュリアおたあ」と呼ばれる。

 彼女を猶子(ゆうし)〈実子でない親子関係の子〉とした大名・小西行長関ケ原の戦いに敗れて刑死した後、勝者である徳川家康の侍女となったが、禁教令が出てもキリシタンとしての信仰を捨てなかったため、伊豆諸島流刑となった

 出自は戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜となった李氏朝鮮両班の娘ともいわれる。生没年や実名、家系などの仔細は不明であるが、生き別れた弟と思われる人物が、朝鮮出兵に参加した毛利家の家臣として村田安政〈うんなき〉として一家を立て、長州藩士を経て現代まで家系が存続している。

 文禄の役において、朝鮮征伐軍により平壌(ぴょんやん)近郊で保護されたのち、キリシタン大名小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられる。保護された際、名を聞かれ「オプタ〈없다 無い〉」と答えたのが転じて「おたあ」と呼ばれるようになったという説がある。行長夫人のもとでキリシタンの洗礼を受け、ジュリアの名がついた。行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたといわれる。

 慶長5年の関ヶ原の戦いにて敗れた行長が処刑され小西家が没落すると、美しく聡明なジュリアの評判を聞いた徳川家康が大奥に召し上げ、伏見城で御物仕〈正室の食事係〉となった。

 慶長12年春、家康は駿府城で隠居する際にジュリアを伴った。駿府城では「阿瀧(おたあ)」と呼ばれた。家康は岡本大八事件〈疑獄事件〉を機にキリシタンを排除するようになり、慶長17年にキリシタン禁止令を出した。ジュリアはキリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の側室への抜擢に難色を示したため駿府より追放され、伊豆大島在島30日で新島(にいじま)に、さらに15日後に神津島(こうずしま)へと流された。どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる。