ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1030話 キリシタン大名・高山右近

序文・洗礼名ジュスト

                               堀口尚次

 

 高山右近〈天文21年- 慶長20年〉は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名である。代表的なキリシタン大名として知られ、カトリック教会の福者でもある。父は摂津国人・高山飛騨守。

  右近の生年は日本側の史料に所見がなく、外国側史料でも一致しないが、後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄6年に10歳でキリスト教洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近ジュストの洗礼名を得た。

 右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村利貞蒲生氏郷黒田孝高などがそうである。細川忠興前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。

 飛騨守の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが〈実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している〉、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。

 慶長19年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督らから歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年に息を引き取った。享年63。