ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1014話 軍師・黒田官兵衛

序文・軍事参謀

                               堀口尚次

 

 黒田孝高(よしたか)は、播磨国の姫路生まれで戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師キリシタン大名でもあった〈洗礼名はドン・シメオン〉。戦国の三英傑に重用され、筑前国福岡藩祖となる。

 諱〈実名』は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、通称をとった黒田官兵衛、あるいは剃髪後の号をとった黒田如水(じゅすい)〈隠居名であるが〉としても広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする竹中重治〈半兵衛〉とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

 家臣に対しては、諄々(じゅんじゅん)に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。ただし、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。ちなみに家督を継いでから隠居するまでの間、一人の家臣も手討ちにしたり、死罪を命じたりしていない。また、身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。

 孝高は後世にしばしば秀吉の「軍師」と呼ばれる。戦国期には合戦に際して方角や日時を占う「軍配者」が存在し、「軍師」とも呼ばれた。孝高は軍配者ではないが、軍師には主君の側近くにあって政治・外交・軍事的な指南を行うものという意味もある。孝高は後者の意味で秀吉の軍師とも評されるが、秀吉の有力側近は豊臣秀長千利休であり、孝高は軍事的な司令官ではあったが豊臣政権を動かす発言力は有していなかったとする指摘もある。しかし、ルイス・フロイス著の『日本史』には、「カトリックを受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は、優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。」として、黒田孝高の名をあげており、参謀や顧問、側近として幕僚にいたことは間違いない。