序文・白頭巾の武将
堀口尚次
大谷吉継(よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。領地・石高は越前敦賀5万7000石。通称は紀之介、号は白頭。官途(かんと)は刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆう)で、大谷刑部の通称でも知られる。業病(ごうびょう)〈ハンセン病・癩(らい)病〉を患って失明し、関ケ原の戦いでは輿(こし)に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。
吉継は業病を患っており、容貌が変質したと伝えられる。業病とは当時の仏教観で先生〈前世〉の罪業に因する病として忌み嫌われていた病気という意味で、非常に治りにくい病気・あるいは不治の病の総称として使われたが、特に相貌(そうぼう)に著しい病変を起こすハンセン病は近代になるまで業病の一種として忌み嫌われていた。吉継がハンセン病であったと断定されているわけではないが、天正15年に大坂を騒がせた辻斬〈千人斬り〉事件では大谷吉継を犯人として疑う風説が流れており〈この事件は宇喜多次郎九郎らが犯人として捕らえられている〉、これに関連して『本願寺日記』〈『宇野主水日記』〉では、吉継が癩病の患者で人体のある部分を〈食するために〉必要としたのだとする説を載せている。その他の病名として組織壊死まで至った末期梅毒説もある。
崩れた顔を隠すための白頭巾を纏った姿で描かれることも多いが、江戸中期頃までの逸話集にはこの描写は存在しない。『関ケ原合戦誌記』『関ケ原軍記大成』などの軍記がこのイメージを広めたようである。ただし、目を病んでいたのは確かなようで、病が重篤化したと推定される文禄3年10月朔日(さくじつ)付けの直江兼続宛書状の追伸で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べている。
石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道(しゅどう)〈男色(なんしょく)〉関係であったとする記録も存在している。その理由として両名が同世代であり、出身も同じ近江国だったためという。また秀吉は三成・吉継を「計数の才」に長けた奉行として重用しており、一緒に行動する機会が多かったことから友情を培ったのではないかといわれている。