ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第868話 軍艦島の生い立ち

序文・炭坑労働争議

                               堀口尚次

 

 端島(はしま)は、長崎県長崎市〈旧:西彼杵(にしそのぎ)郡高島町〉にある島。通称は軍艦島(ぐんかんじま)。「羽島」とも書いていた。明治時代から昭和時代にかけて海底炭坑によって栄え、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅も建造されるなど、昭和35年代には東京以上の人口密度を有していた。昭和49年の閉山にともない、島民が島を離れてからは無人島である。平成27年、国際記念物遺跡会議により、端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコ世界文化遺産に登録された。

 石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった。明治2年には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで台風による被害のために廃業に追い込まれた。36メートルの竪坑が無事に完成したのは明治19年のことで、これが第一竪坑である。

 明治23年端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎〈鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主〉が三菱社へ10万円で譲渡。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。

 明治23年代には隣の高島炭鉱における納屋制度炭坑の事業主が「納屋頭」と「坑夫」を雇う。納屋頭は、坑夫の「募集」「雇い入れ」「繰り込み」「賃金の配分」などを担当し、あるいは、坑夫の炭坑における暮らしの面倒一切を見るという制度である。坑夫は会社ではなく納屋に所属する、一種の間接雇用制度である。が社会問題となっていたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていた。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった。端島における納屋制度の廃止は高島よりも遅かったが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となった。

 昭和20年にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になった。