ホリショウのあれこれ文筆庫

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第922話 稲葉騒動

序文・明治期の農民一揆

                               堀口尚次

 

 稲葉騒動とは、明治2年12月20日夜から12月24日にかけて、尾張国西部一帯〈稲沢・一宮・津島の133村〉で起こった農民一揆である。発端が美濃路の稲葉宿であったことから稲葉騒動と呼ばれた。禅源寺〈三代将軍徳川家光の上洛時に旅宿となった名刹の梵鐘を合図に騒動が始まったと伝わっている。突き鳴らされた鐘はひびが入ったため、「われ鐘」とも呼ばれたが、戦中に供出されて現在の物は新しい鐘となっている。

 尾張国では尾張藩が統治する藩政期には大規模な百姓一揆がなかったが、幕末期には農村部の困窮は著しかった。明治2年は凶作だったことで、農民は役人に救米を要求したが拒否された。

 これらの理由により、同年12月20日夜、数千人が稲葉宿に集結して役人に強訴した。また、大地主尾張藩の為替御用達=大名貸を勤めていたである山田市三郎家を襲撃し、主屋、玄関、書院、長屋門、土蔵、塀などが打ち壊され、諸帳面や証文類が破られたり焼き払われた。さらに周辺の村の庄屋宅を襲撃するなど、一揆は中島郡・海東郡一帯から春日井郡の一部にまで拡がり、3万5000人から4万人が参加したとされている。

 騒動は4日間に及んだが、農民隊を含む尾張藩兵らの銃撃を受け制圧された。尾張藩側は大砲までくりだし、百姓側に多くの死傷者が出た。しかし稲葉騒動後、尾張藩は56石余の救米給与などを行った。「竹槍で どんと突き出す 二分五厘」で有名な地租改正反対一揆の先駆けともいわれる。

 江戸時代までの貢租は米による物納制度であり、あくまで生産者が納税義務者であった。また、その制度は全国で統一したものではなく、地域毎に違いがあった。このような制度を、地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めたのである。

 これは結果的には大多数の農民の負担を高めることにつながり、また土地の所有者がおらず納税が困難な入会地が事実上、政府に没収されたことなどから伊勢暴動、真壁暴動など一揆〈地租改正反対一揆〉が頻発し、自由民権運動へ影響を与えた。

 因みに、江戸時代に稲葉村と小沢村の2村で脇街道美濃路の稲葉宿を構成していた。明治8年に、稲葉村と小沢村が合併して稲沢村となっている。

※禅源寺の鐘             ※襲撃を受けた山田市三郎家