ホリショウのあれこれ文筆庫

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第921話 大和雪原

序文・南極に日章旗を掲揚

                               堀口尚次

 

 大和雪原(やまとゆきはら)は、南極探検家白瀬矗(のぶ)命名した南極の地域名。白瀬は明治45年1月、開南丸〈南極探検に使用された船・命名東郷平八郎〉にてロス棚氷(たなごおり)〈陸上の氷河または氷床が海に押し出され陸上から連結して洋上にある氷〉に接近、クジラ湾近くの小さな湾〈白瀬はこの湾を開南湾と命名〉に停泊しそこから氷崖に上って本拠地を建設した。1月20日、突進隊員4名とともに南極点を目指し出発したが、それは果たせず1月28日に到達した。白瀬はその地点に日章旗を掲揚した。そこから見渡す限りの一帯を「大和雪原」と命名し、日本領とすることを宣言した

 白瀬矗文久元年- 昭和21〉は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重(しちょう)兵〈兵站(へいたん)=ロジステック担当〉中尉。幼名は知教(ちきょう)。「白瀬中尉」と呼ばれることが多い。文久元年、出羽国由利郡金浦村〈現在の秋田県にほか市〉出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男として生まれた。

 南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代は非常にわんぱくだったという。「金浦の浜辺に漁師が捨てた小魚を狙ってきた狐の尻尾をちぎった」「海に潜って300トンもある千石船の底を潜り抜けようとしたが、抜けられずに溺れて死にかけた」「本堂に引っかった凧を取ろうとして落っこちた」のほか、狼退治や150人と血闘を行ったなどと列挙している。

 8歳の頃に、平田篤胤(あつたね)〈江戸時代後期の国学者〉の高弟ともいわれる医師で蘭学者の佐々木節斎の寺子屋に入る。佐々木は読み書きソロバンや四書五経を教え、その他にもコロンブスやマゼランの地理探検、そしてジョン・フランクリン隊の遭難などの話を聞かせた。白瀬は11歳の頃に佐々木より北極の話を聞き、探検家を志すようになる。

 昭和21年9月4日、愛知県西加茂郡挙母町〈現・豊田市〉の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去した。享年85。白瀬矗没後、夫人は故あって吉良町に転住しここを永住の地と定め、本籍を当町に移された。吉良町史跡保存会は、この地を淨域と定め、元侍従長藤田尚徳氏の揮毫を得て、愛知県西尾市吉良町に「南極探検隊長 大和雪原開拓者之墓」の墓碑を建立した。

※大和雪原にて皇居を遙拝する白瀬中尉(中央)