ホリショウのあれこれ文筆庫

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第867話 徳本行者

序文・南無阿弥陀仏

                               堀口尚次

 

 徳本(とくほん)は、江戸時代後期の浄土宗の僧・念仏聖(ひじり)。俗姓は田伏氏。号は名蓮社号誉。紀伊国日高郡の出身。徳本上人徳本行者とも呼ばれる。念仏行者として全国を巡錫し、「流行神」と称されるほど熱狂的な支持を集めた

 宝暦8年6月22日、和歌山県日高町志賀に生まれる。生家の田伏氏は、畠山政長室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名〉。の次男・畠山久俊の子孫と伝わる。父母には男児がなく、神仏に願うと、母親は蓮華の花を飲む夢を見てしばらく後に懐妊、男児が生まれたという。わずか2歳の年、姉に抱かれながら月に向かって「南無仏」と唱えたとか、4歳のころ、仲のよかった隣家の子どもの急死に無常を感じ、常に念仏を唱えるようになったとか、伝承されている。

 16歳から修業を始め、天明4年、27歳のとき往生寺にて得度し、徳本と称する。草庵に住み、1日1合の豆粉や麦粉を口にするだけで、ひたすら念仏を唱え続けた。また、水行をしたり、藤の蔓(つる)につかまって崖をよじ登るなど、他に例のない過酷な修行をしたことも伝えられており、行場跡も多く残っている。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経(ぼんもうかいきょう)を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。

 寛政6年、次第に世に知られるようになったころ、全国行脚を開始。巡礼において道歌〈道徳的な、または教訓的な短歌〉や俗歌を交えて教えを説いたため、民衆から大きな支持を得た。また徳本の念仏は、木魚と鉦(しょう)を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれる。

 享和3年、京都法然院でそれまで切ることのなかった髪を切り、剃髪。その後、江戸に出、さらに各地に巡錫(じゅんしゃく)して熱狂的に迎えられ、「流行神」と称されるほどの人気となった。生き仏を拝むがごとく、一般大衆から大名まで広く崇敬を受けた。

 巡錫は近畿、東海、関東、中部、北陸など、驚くほど広い範囲におよび、上人の足跡を物語る石碑〈名号塔・念仏碑・念仏塔〉は、全国各地に1500基以上確認されている。徳本上人独特な字で「南無阿弥陀仏 徳本」と書き、信者たちに分け与えた。それを石に刻んだのが名号塔である