序文・お題目の確立
堀口尚次
日蓮は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗〈法華宗〉の宗祖。鎌倉での宗教活動を理由に、得宗・北条時宗によって佐渡に流罪にされる。赦免後、胃腸系の病により入滅。滅後に皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈された。
日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登った。天台宗は智顗(ちぎ)〈中国天台宗の僧〉以来、法華経を最も優れた経典とする五時八教(ごじはっきょう)〈天台宗の教義〉の教相判釈(きょうそうはんじゃく)〈経典を判定し解釈〉を受け継いでいた。
清澄寺に登る前から学問を志していた日蓮は、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立てた。少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈禱を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた。また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった。清澄寺にはこれらの疑問に答えを示せる学匠(がくしょう)がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。
遊学を終えた日蓮は建長4年秋、あるいは翌年春、清澄寺に戻った。建長5年4月28日、師匠・道善房の持仏堂で遊学の成果を清澄寺の僧侶たちに示す場が設けられた。その席上、日蓮は念仏と禅宗が法華経を誹謗する謗法を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行を説いた。日蓮が念仏と禅宗を破折(はせつ)〈折伏(しゃくぶく)=論破〉したことは大きな波紋を広げた。南無妙法蓮華経の言葉は日蓮の以前から存在し、南無妙法蓮華経と唱えることは天台宗の修行としても行われていた。その場合、南無妙法蓮華経の唱題は南無阿弥陀仏の称名念仏などと並行して行われた。しかし、日蓮は念仏などと並んで題目を唱えることを否定し、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した。
現在の公明党・創価学会も元を辿れば、日蓮上人の日蓮宗に遡ることになり、戦前の日蓮主義者や戦後の新興宗教なども、この日蓮上人・日蓮宗から影響を受けたものはかなりある。そういう意味で、日蓮上人は日本の思想体系に多大なる痕跡を残したことは間違いないといえよう。