ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第496話 梟首された江藤新平

序文・悲惨な結末

                               堀口尚次

 

 江藤新平天保5年 - 明治7年は、江戸時代後期の武士〈佐賀藩士・権大参事〉、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎又蔵。諱は胤雄胤風とも、号は南白または白南朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいらのたねお)。位階は贈正四位東征大総督府軍監、微士、制度取調専務、左院副議長〈初代〉、文部大輔〈初代〉、司法卿〈初代〉、参議、佐賀征韓党首を歴任。

 立法・行政司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、わが国近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。また、司法制度・学制・警察制度の推進と共に四民平等」を説き浸透させた

 明治6年に参議に転出し太政官・正院の権限強化を図った。同年、征韓論争に敗れて辞職。翌年に民撰議院設立建白書に署名する。帰郷後は佐賀の乱の指導者に推され、征韓党を率いて政府軍と戦うが敗れる。高知県東部の甲浦で逮捕され、佐賀城内の臨時裁判所で死刑に処された。功績を基に、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」としても列せられる。

 江藤は征韓党を解散して逃亡し、湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。その後いく人かのもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。しかしその途上、現在の高知県甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった

 江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に護送され、急設された差が裁判所で司法省時代の部下であった権大判事・河野敏鎌によって裁かれた。河野は江藤を取り調べ、弁論や釈明の機会も十分に与えないまま死刑を宣告した。訊問に際し敏鎌は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかった。

 既に、内務卿・大久保利通の判断で結審前に判決案は固まっており、府県裁判所である佐賀裁判所は単独で死刑判決が出来ないにも関わらず、河野により除族の上、梟首(きょうしゅ)〈晒(さらし)首〉の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において島木勇山中一郎ら十一名と共に斬首に処された。首は千人塚で梟首された。この一件は、大久保利通の「私刑」として捉えられている

 刑に挑んで江藤は、「唯皇天后土のわが心知るあるのみ」と三度高唱し、従容として死についたという。判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。この裁判について、巷では大久保が金千円で河野を買収して江藤を葬ったという風評が立ったが、河野自身は晩年になって立憲改進党掌事の牟田口元学に自身の行動に関する弁明をしている。

 江藤は、自分が低い身分から起ったので、司法卿に栄進しても少しも尊大ぶらず、面会を求むる書生は誰でも引見し、その才幹を認むれば直ぐにも登用した。それ故、郷国の官途につこうとする者は、先ず江藤を訪い、志望を述べ採用を頼むので、その私邸にも役所にも常に一二人の訪問者が絶えなかったと言われる。新平はこれ等の人を引見しては、先ず先に『貴公は本を読むか』と尋ねる。読みますと答えると、『どういう種類を読むか』と反問して、その答えに依りてその人物を察し、登用の程度を決めたそうである。まだ第二の試験方法としては、政治法律上の問題をあたえて、これについて意見を書いて来いと言い、論文を徴するか、または直に論題を提出して、その議論を聴取するのが例であった。この試験に及第しさえすれば、即日にも採用するが、もしこれに落第した者は如何なる情実があろうが、決して用いる事はなかった。ゆえに江藤の登用した人物には、一人として無能おらず、適材を置くの主義で、皆一廉の働きを現した。

 辞世は、「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」

明治22年大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。大正5年4月11日、贈正四位墓所佐賀県佐賀市の本行寺。墓碑銘「江藤新平君墓」は書家としても知られる同門の福島種臣が明治10年に手がけた。同市の神野公園には銅像もある。

 明治維新で文明開化といいながら、梟首〈晒し首〉という野蛮な風習が残っていたことに、永い封建時代の名残を感じざるを得ない。