ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1002話 自刃に追い込まれた豊臣秀次

序文・関白まで上り詰めたのに

                               堀口尚次

 

 豊臣秀次または羽柴秀次は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣氏の第2代関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。

 幼少時、戦国大名浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部吉継と名乗った。

 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名を秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松〈秀吉嫡男〉が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次強制的に出家させられて高野山青巌寺蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原晒し首とされ、その際に眷族(けんぞく)〈配下の者〉も尽く処刑された

 慶長年間に成立した太田牛一の『太閤さま軍記のうち』は、事件の全貌を最初に描いた作品であったので後世に強い影響を与え、最初の“通説”を形成する上での底本となった。この軍記は非常に曖昧な謀反の風聞を粛清の口実としながらも、秀次がこのような憂き目にあったのはその暴虐な行いに原因があったという、「因果歴然の天道思想」に則って事件を描くことで、むしろ天然自然の道理である天道を説くことに重点を置いたところに特徴があるが、これでは秀次の滅亡を勝者の論理で正当化したのと変わらない。この軍記における暴虐行為の描写は、江戸時代の『絵本太閤記』になるとさらに話に尾鰭(おひれ)が付けられ、“殺生関白”という言葉の説明のために悪行はエスカレートして加筆されて、その後も長期に渡って秀次暴君論がまかり通る原因となったのである。謀反説はその後の他書においては讒言(ざんげん)説へと発展するわけであるが、完全には無くならず、殺生関白の悪名はほぼそのまま残った。一方で、『太閤さま軍記のうち』は「天道の恐ろしき次第なり」で片付けてしまったので、結局のところ何も解明されず、どのような理由によって粛清されたのかという真相の部分は曖昧なままとされてきた。よって現在でも断片的な説明となるいくつかの仮説が存在するのみである。