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第908話 羽柴備前中納言秀家

序文・宇喜多秀家

                               堀口尚次

 

 宇喜多秀家は、安土桃山時代の武将・大名。宇喜多氏の当主。通称は八郎、備前宰相。

 父・直家の代に下剋上戦国大名となった宇喜多氏における、大名としての最後の当主である。豊臣政権末期五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されていた。関ケ原の戦いで西軍について敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。

 宇喜多秀家」はあくまでも歴史用語である天正10年の元服時には仮名として「八郎」、実名〈諱〉して「秀家」を名乗り、宇喜多家の家督を継承したが、宇喜多の名字が使われた記録は無い。天正13年の書状では「羽柴八郎」となっているが、その前年には後見人の秀吉から名字を省略されて「八郎殿」と称されており、名字の省略は大抵は同名だったことから既に「羽柴八郎」を称していた可能性が高い。

 天正13年の秀吉の関白就任に伴い豊臣姓を与えられ、侍従に任官して「羽柴備前侍従」を称し、その後昇進に伴い「羽柴備前少将」、「羽柴備前宰相」と改称し、関ヶ原の戦い時は「羽柴備前中納言」であった。同一文書内で「備前宰相」「浮田宰相秀家」と書かれたものも存在する〈文禄元年〉。文禄4年の起請文では「羽柴備前中納言秀家」となっている。

 本姓を使った対天皇の格式名称としては「参議左近衛中将豊臣秀家」と署名した記録が残るほか〈天正16年『聚楽第行幸記』〉、嫡男「豊臣秀隆」の任官につき「備前浮田」「備前浮田息」と併記された文書も残っている。

 なお実名は正式な文書の署名で仮名または百官名を併記して使うが、仮名は百官名を得るまで臨時に名乗るものに過ぎず、百官名とは両立しない。すなわち、当時の社会通念上、宇喜多秀家とか宇喜多備前中納言八郎秀家と名乗ることは無い

 秀家は、関ケ原の戦いで敗れた後、家康により慶長11年4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった。秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島・大賀郷の南原海岸には、西〈=備前国〉を臨む秀家と豪姫の石像が建てられている。