ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1003話 「残念様」こと木村重成

序文・豊臣秀頼の小姓

                               堀口尚次

 

 木村重成は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣家の家臣。知行3千石。豊臣秀頼の乳母の子ということから、秀頼とほぼ同年齢であったとみられる。父と兄は豊臣秀次に仕えていたため秀次事件に連座して自害させられたが、助命された母の宮内卿局(くないきょうのつぼね)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。

 秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席した。慶長4年、豊臣姓を与えられる。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、開戦を主張し、片桐且元大坂城から追い出すのに一役買った。大阪冬の陣では今福砦攻防戦を展開し、徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。

 慶長20年、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親と共に八尾・若江〈東大阪市南部〉方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎井伊直孝の両軍と対峙した。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。その後、敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との戦闘の末に戦死した。

 首実検でその首級が家康に届けられると、重成の首は、月代(さかやき)を剃って髪が整えられ、伽羅(きゃら)の香りさえ漂っているのを見た家康が、その死地に臨む武将としての嗜みの深さを誉めたとされる。その後、首は安藤重勝〈井伊家家臣〉が密かに彦根まで持ち帰り、安藤一族の菩提寺である宗安寺に埋めたとされ、同寺院には木村重成首塚がある。大阪方諸将の墓碑の建立は認められていなかったため、重成の遺体は同じく若江の戦いで戦死した山口重信の墓の隣に葬られ、目印として2本の松の木が植えられた。享保15年に重信の墓を訪れた儒家の並河吾一は墓碑もない重成の扱われ方を憐れみ、訴願して墓を建立したという。

 重成の死から200年以上経った文政11年に、重成の墓に参拝するブームが突如として発生し、大坂町奉行が沈静化に乗り出す騒ぎとなった。大阪の市井の人々は重成の墓を「残念墳」、重成を「残念様」と呼び、願をかけると願いが叶う神として親しんだ。