序文・最後は徳川将軍家中枢へ
堀口尚次
崇源院(すうげんいん)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。近江の戦国大名・浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方〈織田信長の妹〉。崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督(おごう)の名で知られるが、諱は達子(みちこ)で、追贈された贈位は従一位。長姉の淀殿〈茶々〉、次姉の常高院〈初〉で、いわゆる浅井三姉妹の一人で、初め佐治一成と婚約したが、秀吉により離縁させられて、その甥で養子の豊臣秀勝と再婚し、娘完子(さだこ)をもうけたが、秀勝が急逝。江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠と3度目の結婚をして、3代将軍家光を含む2男5女をもうけた。猶女(ゆうじょ)に鷹司孝子がいる。
江は秀吉の意向により、尾張国知多郡大野領主で信長の次男・織田信雄の家臣であり、従兄にあたる佐治一成のもとへ嫁いだという。 佐治氏は、一成の父・佐治信方が信長の妹〈お犬の方〉を室とした織田一族で、秀吉は清洲会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたという。 江と一成の婚姻時期・事情については記録が見られないが、天正12年に秀吉は小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄と戦い、信雄方の一成は戦後に大野を追放され、江とも縁離したといわれる経緯から、同年初めに想定されている。
その後、秀吉の実の甥で養子の丹波国亀山城主〈京都府亀山市〉・豊臣秀勝の元へ嫁ぐ。秀勝への再嫁時期は不明である。
文禄4年9月17日には伏見において徳川家康の嗣子である秀忠〈二代将軍〉に再嫁する。秀忠は天正18年に上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女である小姫と縁組をしていたが、小姫の死去により婚礼には至らなかった。秀忠との間には慶長2年の千姫を頭に家光〈三代将軍〉・忠長、和子など2男5女を儲けた。
【私見】筆者は過日、知多四国霊場巡礼のおり、常滑市の67番札所・蓮台寺三光院を訪れた。ここは大野城主・初代の佐治駿河守宗貞の墓所である通称・寿山塚がある。また、大野城が敵に攻められた時、佐治氏に嫁いでいたお江が蓮台寺に逃げ、死を装い追手から逃れるために松に自分の衣を掛けたといわれている「衣掛けの松」もある。更に、逃げてきたお江が蓮台寺にここから入ったといわれ、以後、2度と開けることがなかったといわれる「あかずの門」もある。悲運のお江の痕跡に接し、戦国の世の姫の無常を感じた。