ホリショウのあれこれ文筆庫

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第902話 有楽町の生みの親「織田長益」

序文・織田信長の弟

                               堀口尚次

 

 織田長益(ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。長益系織田家嫡流初代。 織田信秀〈信長の父〉の十一男で、有楽(ゆうらく)・如庵(じょあん)と号した。そのため、織田有楽斎(ゆうらくさい)として言及される場合も多い。

 千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。後には自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。

 織田信長の弟の一人であるが、信長とは年齢が13歳離れており、前半生の事歴はあまりわかっていない。母は信秀の側室のうちの一人と推測されるも不詳。

 天正2年、尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修する。以降、信長の長男・織田信忠の旗下にあったと思われ、甲州征伐などに従軍している。長益は一旦は大野城主として入るが、水利の悪さから、すぐ真向かいに大草城を築城して移り、大野城は廃城となった。お江〈後の崇源院〉が最初の結婚で佐治一成に嫁いで来たのがこの大野城であることも有名である。※大草城〈知多市〉と大野城常滑市〉は小型天守閣が再現され公園として整備されている。

 大坂の陣では有楽が堺占拠の際捕らえられた今井宗薫(そうくん)を赦すなど穏健的行動をとっていたのに対し、有楽の嫡男・頼長は片桐且元殺害を計画し、織田信雄を大坂方の総大将に担ごうとするなど、過激的行動を幕府側にも警戒されており、有楽とも対立していた。また一説によると頼長は冬の陣では病と称して攻撃に加わらないなどの不審な行動が多く、夏の陣前に「自分を司令官にしろ」と主張して諸将の反対にあい出奔したとも伝えられる。有楽大坂城退去は、この頼長の奇行も原因のひとつとされている。

 東京都千代田区有楽町という町名は、長益の号「有楽」に由来し、茶人としても名をはせた有楽関ヶ原の戦いのあと、徳川方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたとの説があるが、文字の類似からきた俗説であり、有楽がここに住んだという記録はない。