ホリショウのあれこれ文筆庫

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第903話 津藩主の先生・斎藤拙堂

序文・その人脈と影響力は多大

                               堀口尚次

 

 斎藤拙堂(せつどう)〈寛政9年 -慶応元年〉は、幕末の朱子学者。諱は正謙、字は有終、通称は徳蔵。号は拙堂鉄研。寛政9年、津幡士の子として江戸の藩邸内にて生まれ、昌平黌(しょうへいこう)〈学問所〉で古賀精里(せいり)の教えを受ける。文政3年24歳で古文に通じた人物として藩校有造館の創設に加わり、文政7年藩主・藤堂高猷(たかゆき)の侍講(じこう)〈君主に仕え学問講義する事〉となる。

 天保12年、郡奉行(こおりぶぎょう)〈郡代=代官より広範囲の地方行政官〉に任ぜられ、地方役人や庄屋の不正を糺(ただ)した。弘化元年、有造館の督学〈校長〉となると、学則を改め人材を挙げ、広く書籍を購入し文庫を増設し、『資治通鑑(しじつがん)』294巻を刊行した。アヘン戦争後には海外事情についても研究を重ね、時勢の変遷にも敏感に対処した拙堂自身は一貫した朱子学者であったが、西洋の文物でも優れているものはそれを認めて、和漢洋の折衷によってより良いものにしていくこと〈和洋折衷〉を唱えた。そのため、有能な藩士を江戸に送り、洋学や西洋兵術を学ばせ、種痘術の渡来に際しては有造館に種痘館を開き、率先して藩内に施行し、洋式軍制を取り入れるなどの藩政改革にも関わった。

 安政2年、幕府の命で江戸に赴き、将軍・徳川家定に拝謁した。幕府は拙堂を儒官に抜擢しようとしたが、主君の元を去り難しと拙堂はこれを辞退している。

 安政6年致仕、慶応元年没。墓所三重県津市四天王寺大正13年正五位を追贈された。

 頼山陽大塩平八郎渡辺崋山吉田松陰など、多数の儒者文人との交流ももった。弟子に三島中洲、河合継之助らがいる。

 その博学ぶりは広く世に知られたが、特に漢文をもって知られ、古今の漢文について評した『拙堂文話』や武士のあり方について論じた『士道要論』『海防策』などその執筆分野は多岐にわたっている。拙堂の最も得意としたのは紀行文であり、『月瀬記勝』は大和国月ヶ瀬を梅の名所にたらしめ、頼山陽の『耶馬渓図巻記』と並んで紀行文の双璧とされ、拙堂の名を高めた。また、後南朝の名付け親としても知られている。※津偕楽公園に「拙堂斎藤先生頌徳碑」がある。