ホリショウのあれこれ文筆庫

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第895話 信長を諫めて自刃・平手政秀

序文・織田信長の教育係

                               堀口尚次

 

 平手政秀は、戦国時代の武将。織田信秀信長の2代に仕える尾張国春日井郡にあった志賀城の城主。

 織田信秀重臣として主に外交面で活躍。茶道や和歌などに通じた文化人で、天文2年に尾張国を訪れた山科言継(ときつぐ)〈公家〉から賞賛を受けるほどであった。天文12年5月には、信秀の名代として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4,000貫を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していた。

 天文3年、信長が誕生すると傅役(ふやく)〈教育係〉となり、次席家老を務めた。天文16年には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌17年には争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めた。また安城合戦においては織田信弘〈信長の異母兄〉への援軍を率いた。

 信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年閏1月13日に自刃した。享年62。

 菩提寺は政秀寺、墓碑は平和公園政秀寺墓地に移転。首塚名古屋市西区中小田井の東雲寺にある。

 『信長公記』の首巻に拠れば、政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したとされている。不和の原因を作ったのは政秀の長男・五郎右衛門で、信長が五郎右衛門の持っている馬を所望したとき、五郎右衛門は「自分は馬を必要とする武士だから、〈馬を献上するのは〉お許しください」と言って拒否したのを信長が逆恨みしたのだとされる。

 その他の説として、信長の奇行を憂い、自身の死で諌めるためという美談として有名なものもある。

 別の説では、信長の弟・信行を家督継承者に推す林秀貞・通具(みちもと)兄弟や信行の後見人である柴田勝家との対立が原因であるとするもの。

 政秀の死後も信長の行状は改まらなかったが、信長は政秀の死後に沢彦宗恩(たくげんそうおん)を開山として春日井郡小木村に政秀寺を建立し、菩提を弔った。