ホリショウのあれこれ文筆庫

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第939話 松平信綱の忠義

序文・二君にまみえず

                               堀口尚次

 

 松平信綱(のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。

 慶長8年9月3日、将軍世子の徳川秀忠に、11月には正綱に従って伏見城に赴き、11月15日に徳川家康と初めて拝謁した。慶長9年7月17日に秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になった。慶長10年12月3日に5人扶持となる。

 安4年の家光の死の際に殉死しなかったことを江戸市民は非難し、「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と皮肉ったという。他にも「弱臣院前捨遺豆州太守弱死斟酌大居士」と称され、「仕置きだて、せずとも御代は、まつ平、ここに伊豆とも、死出の供せよ」と皮肉られている。ただし信綱が殉死しなかったのは、家綱〈家光の子〉の補佐を家光から委託されていたためであり、信綱は「二君にまみえず」とは違う家中に仕えることを指しており、先代に御恩を蒙っている者が皆殉死したら誰が徳川家を支えるのかと反論している

 幕閣のトップである老中にまで昇りつめた信綱には、以下の逸話が残る。

 家光〈将軍秀忠の子〉が竹千代と名乗っていた頃、将軍の秀忠の寝殿の軒端でスズメが巣を作り、子がかえった。当時は11歳だった三十郎こと信綱は家光から「巣を取ってまいれ」と申し付けられたので、日が暮れてから寝殿の軒に忍んだ。ところが巣を取るとき、誤って足を踏み外して中庭に落ちてしまい、寝殿にいた秀忠に気づかれてしまった。秀忠は刀を手にして「誰の命令でここに来た?」と問い詰めたが信綱は「自分がスズメの巣が欲しかっただけでございます」と答えるのみであった。秀忠は誰の命令か事情を察していたが強情な信綱を見て、「年齢に似ず不敵な奴だ」と信綱を大きな袋に入れて口を封じて縛りつけた。秀忠の正室で家光の生母である於江も事情を察して、夜が明けると侍女に命じて密かに信綱に朝食を与えた。昼に秀忠は再び誰の命令か言うように問い詰めたが、信綱は前と同じように答えるだけだった。秀忠はその態度を見て怒るどころか今後を戒めた上で解放した。のちに秀忠は江に向かって「信綱今のまま成長したら、竹千代の並びなき忠臣となるだろう」と言って喜んだという。