序文・加賀百万石の祖と知多半島の縁
堀口尚次
前田利家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。加賀藩主・前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に「加賀百万石の祖」とも称されるが、実際に前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代から。
尾張国海東郡荒子村〈現・名古屋市中川区荒子〉の荒子城主・前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆(あかほろしゅう)〈信長直属の部下〉として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。
はじめ前田氏は、織田家筆頭家老・林秀忠の与力であったが、天文20年ごろに織田信長に小姓として仕える。若いころの利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であった。
桶狭間の戦いの前年、普段から信長配下の武将に対して横柄な態度が多かったという信長お気に入りの茶坊主の拾阿弥(じゅうあみ)が、利家佩刀(はいとう)の笄(こうがい)〈髪結い道具〉を盗み、利家を激怒させた。利家は拾阿弥を成敗すると言って聞かなかったが、信長の取り成しで一時はこれが収まり大事には至らなかった。しかし、その後も拾阿弥は利家に対し度重なる侮辱を繰り返したため、利家は許可なしに信長の面前で拾阿弥を斬殺し、織田家を出奔する。
愛知県知多郡阿久比町草木の八幡神社に前田利家が桶狭間の戦いの戦勝御礼に刀と旗を奉納したという伝説がある。以下は「広報あぐい・あぐいぶらり旅~伝説の地を歩く〈鎮守の神宝〉~」から引用。
『前田利家は尾張国荒子〈現在の名古屋市中川区〉の出身。永禄2年、主君織田信長がかわいがる家臣十阿弥を斬殺してしまい、信長から出仕停止処分を受け浪人暮らしをすることになる。永禄3年、桶狭間の合戦で信頼を取り戻そうと東奔西走するが信長には許してもらえない。この年の秋、気が晴れないまま利家は草木村の鎮守八幡神社にさしかかり、豪農多左衛門に出会う。草木村に前田利家の縁者、前田与十郎がいた〈正盛院過去帳に名前あり〉。利家はしばらくこの地で過ごし村人にも世話になったので、戦で使った“刀1本と旗1片”を戦勝のお礼と心願成就を祈るため、八幡神社の神前に奉納したいと与十郎に申し出る。その後、八幡神社に神宝としてまつられる。』