ホリショウのあれこれ文筆庫

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第606話 オルガンを担いで運んだ山葉寅楠

序文・山葉と河合で始まった

                               堀口尚次

 

 山葉寅楠(やまはとらくす)、嘉永4年 - 大正5年は、日本楽器製造株式会社〈現在のヤマハ株式会社〉の創業者。日本における初期のオルガン〈リード・オルガン〉製造者の一人であり、日本のピアノ製造業の創始者の一人でもある。

 明治維新後の明治4年に長崎に出て英国人のもとで時計の修繕法を学び、その後大阪の医療器具店に勤め医療器具の修理工として働いた。明治17年から浜松支店に駐在していたが医療器具の修理だけではなく、時計をはじめとした機械器具全般の修理などを請け負っていた。明治20年に浜松尋常小学校アメリカ製オルガンの修理を手がけたことからその構造を学び、明治21年に日本最初の本格的オルガンの製造に成功した。

 明治22年合資会社山葉風琴製造所を設立した。明治24年には山葉風琴製造所が出資引き揚げにより解散するが、河合喜三郎らと共同で「山葉楽器製造所」を設立した。明治30年10月12日に資本金10万円で日本楽器製造株式会社ヤマハに改組し初代社長となった。 浜松尋常小学校のオルガンは明治20年アメリカから輸入され寄付されたリードオルガンで45円であったという。山葉は修理の際にこの構造を模写し「自分は3円で造る自信がある」と言ったという。

 当時浜松で飾り職人をしていた河合喜三郎と協力し2ヶ月後にオルガンを完成させたが、浜松の小学校や静岡の師範学校での評価は低かった。そこで東京の音楽取調所〈現東京藝術大学〉までオルガンを運んだ。東海道線が全通していなかった当時、オルガンを担いで徒歩で箱根峠を越えての上京だったという。音楽取調所御用掛の評価は、「調律が不正確」というものだった。音階や調律の知識のなかった山葉は1ヶ月かけて音楽取調所で音楽理論を学び、河合喜三郎の私財をもってオルガン第2号を製作した。

 事業に対する姿勢として「自分は品物を販売するに掛引をせぬ。生産費を控除して代価を定め決して暴利を貪らぬ、而して品質に対しては絶対的責任を負ぶるを信条として、社会の信用を博する覚悟である」と語っていた。

 『ヤマハブランドの商標「YAMAHA」は、洋楽器製造の先駆者である創業者・山葉寅楠の姓に由来します。』※YAMAHAのホームページより抜粋