ホリショウのあれこれ文筆庫

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第605話 発明家・豊田佐吉

序文・世界の豊田のはじまり

                               堀口尚次

 

 豊田佐吉、慶応3年 - 昭和5年は、発明家、実業家。豊田式木鉄混製力織機〈豊田式汽力織機〉、無停止杼換式自動織機〈G型自動織機〉をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をした。言わずと知れたトヨタブループの創始者である。

 佐吉は小学校を卒業した後、父について大工の修業を始めた。だが18歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な手機織機の改良を始めた。佐吉は生涯、発明という夢を追い続けた。そして、青年時代は放浪と出奔を繰り返した。19歳の時、佐吉は同じ大工見習いの佐原五郎作を誘い、家出をした。2人は徒歩で東京まで行った。しかし観光ではなく、佐吉は工場ばかりを見て回った。23歳の時は上野で開催されていた第3回内国勧業博覧会を見るために上京した。目的は外国製の機械と臥雲辰致(がうんたつむね)〈紡織機の発明家〉の発明品を見たかったからである。この2回の家出をはじめ、青年期の佐吉は一ヶ所に長く留まることがなかった。彼はひたすら各地を回り続けた。佐吉はふらっと尾張の企業地へ出掛けることもあった。木曽川町玉ノ井で、佐吉が1年間ほど、有力機屋に寄寓し、研究したことが町史に記載されている。また稲沢市においては野村織工場に滞在して、バッタン機の改良装置を試作したと伝えられている。佐吉は発明のヒントを探すために全国各地どこへでも出かけていった。納屋へとじこもってもっぱら織機の改良に集中した佐吉の発明生活は、きわめてけわしいものであった。

 特許の恩恵を最も受けた発明家が、豊田佐吉だと言われる。それまでの日本では、技術や知識は門外不出、一子相伝であった。佐吉はそのような古い考え方を改めなければならないと考えた。彼は発明した技術を広く知らせて、誰でも使うことができるようにするのが特許であると理解したのである。

 佐吉がもうひとつの心の拠り所としたのが日蓮宗である。代々の豊田家の菩提寺日蓮宗日什門流八別格本山のひとつである妙立寺であった。そのため、小さい頃から日蓮宗は身近な存在であった。妙立寺には父の伊吉が寄附したことを記した大きな寄進板が掲げられている。日蓮宗の持っている現世救済の精神、あるいは国家主義的な教えを佐吉は常に心の中に持っていたと考えられる