ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1028話 パン祖・世直し大明神こと江川英龍

序文・西洋式のパンを焼いた幕臣

                               堀口尚次

 

 江川英龍(ひでたつ)〈享和元年-安政2年〉は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門、号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。

 日本列島周辺に欧米の列強の船舶がしきりに出没するようになった時代において、洋学とりわけ近代的な海防の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方の一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。また兵糧として西洋式のパンを焼いたことから、現代では「パン祖」とも呼ばれる。

 国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目して兵糧パン〈堅パンに近いものを焼いた人物である。日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれており、江川家の地元伊豆の国市(くにし)では「パン祖のパン祭り」が例年開催されている。パンは最初、1543年に種子島に来たポルトガル船による鉄砲伝来と伴うもので、その後のキリスト教宣教師の布教活動とともにパン食の普及も始まり、織田信長が食べたという記述も残っているが、キリシタン弾圧〈禁教令〉や鎖国によってしばらく途絶えていた。

 英龍は屋敷近隣の金谷村の人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織したとされる。今でも日本中で使われる「気をつけ」「右向け右」「回れ右」といった号令・掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと親族に頼んで西洋の文献から日本語に訳させたものである。

 父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られ、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。英龍は自身や自身の役所、支配地の村々まで積極的な倹約を実施した。一方で、殖産のための貸付、飢饉の際の施しは積極的に行い領民の信頼を得た。また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英龍の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。現在に至っても彼の地元・韮山では江川へ強い愛着を持っている事が伺われる。