ホリショウのあれこれ文筆庫

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第121話 濡れ衣事件の「蛮社の獄」とは

序文・どうやら濡れ衣事件である事が濃厚だ。幕府の言論弾圧だから仕方ないか・・

                               堀口尚次

 

 蛮社(ばんしゃ)の獄とは、天保10年に起きた言論弾圧事件だ。高野長英渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑されたなどの一連の事件。

 天保年間には江戸で蘭学が隆盛し新知識の研究や交流をする機運が高まり、医療をもっぱらとする蘭方医とは別個に、一つの潮流をなしていた渡辺崋山はその指導者格であり、高野長英への知識提供者であった。この潮流は国学者たちからは「蛮社」(南蛮の学を学ぶ同好の集団、社中(結社の仲間)。「蛮学社中」の略)と呼ばれた。

 後に蛮社の獄において弾圧の首謀者となる幕臣・旗本は、幕府の文教部門を代々司る家の出身であった。儒教を尊んできた幕府は儒学の中でもさらに朱子学のみを正統の学問とし、他の学説を非主流として排除してきた。当家はそのような官学主義の象徴とも言える存在であり、文教の頂点と体制の番人をもって任ずる当家にとって蘭学は憎悪の対象以外の何物でもなく、また当家の門人でありながら蘭学に傾倒し、さらに多数の儒者蘭学に引き込む崋山に対しても、同様の感情が生まれていた。

 天保年間、日本社会は徳川幕府成立から200年以上が経過して幕藩体制の歪みが顕在化し、欧米では産業革命が推進されて有力な市場兼補給地として極東が重要視され、18世紀末以来日本近海には異国船の来航が活発化し始めた。

 寛政5年のクラフマンの根室来航を契機として、幕府老中松平定信鎖国祖法観〈祖先から代々伝わる法〉を打ち出した。幕府の恣意的規制の及ばない西洋諸国との接触は、徳川氏による支配体制を不安定化させる恐れが強く、鎖国が徳川覇権体制の維持には不可欠と考えたためである。一方でこの頃から、蘭学の隆盛とともに蘭学者の間で西洋への関心が高まり開国への期待が生まれ始め、庶民の間でも鎖国の排外的閉鎖性に疑問が生じ始めていた。また、異国船の出没に伴って海防問題も論じられるようになるが、鎖国体制を前提とする海防とナショナルな国防の混同が見られ、これも徳川支配体制を不安定化させる可能性があった。

 そのような中で出されたのが文政8年の異国船打払令である。これについては、西洋人と日本の民衆を遮断する意図を濃厚に持っていたと指摘されている。

 蛮社の獄の発端の一つとなったモリソン号事件は、天保8年に起こった。江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースであった。彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人が、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。この際に使用された船がアメリカ船モリソン号である。

 天保8年にマカオを出港したモリソン号は浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令適用により、沿岸より砲撃をかけた。モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老と交渉したが、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表すために武装を撤去していたためである。また打ち払いには成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さもあらわにした。

 こうした中、長英や崋山は、モリソン号事件を批判した事や無人島へ渡航しようとした容疑などで捕捉された。審理の結果、長英には永(えい)牢(ろう)〈終身刑〉、崋山には蟄居(ちっきょ)〈自宅の一室に謹慎させる刑〉が言い渡された。

 無人島渡海について、拷問で獄死した町人たちと同罪と見られる罪状がありながら、幕臣・陪臣はそれぞれ別件で「押込」という軽い処罰で済まされているが、その理由として、蛮社の獄は「幕府が緩み始めた鎖国の排外的閉鎖性の引き締めを図った事件」であって、罪状の有無よりも西洋・西洋人への警戒心の風化を戒める一罰百戒としてみせしめ的厳罰という要素が強かったため幕臣は除かれ町人たちだけが冤罪の犠牲にされた。幕臣・旗本が「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を、町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされた事件であるとの説もある。

 その後崋山は判決翌年に田原(愛知県渥美半島)に護送され、当地で暮らし始めたが、生活の困窮・藩内の反崋山派の策動・彼らが流した藩主問責の風説などの要因が重なり、蛮社の獄から2年半後に自刃した。長英は判決から4年半後に、牢に放火して脱獄した。蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡したが、脱獄から6年後、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害された。

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