ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1099話 ご相伴にあずかる

序文・御相伴衆

                               堀口尚次

 

 相伴衆(しょうばんしゅう)〈御相伴衆とも〉は、室町時代における役職的な身分の一つ。将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事管領家(かんれいけ)の一族や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった〈ただし、三管領家も社会的身分としては相伴衆中の上位に位置づけられていたとする見方もある〉。

 将軍の外出などに守護大名が随従する慣習は足利義満の頃には成立していたが、役職・身分としての相伴衆の成立は足利義教の永享年間であると推定されている。

 戦国時代になると、朝倉孝景北条氏康北条氏政尼子晴久斎藤義龍毛利元就毛利隆元毛利輝元今川氏真、大友義鎮、伊東義祐、河野通直など在京して将軍に随従する事もない地方の戦国大名が任じられる例も増えて、役職としての意味合いは希薄化して大名の格式を示す身分としてのみ存在するようになるが、一方で武田信玄から追放されて京都へ居を移した武田信虎が任じられる事例もあった。また、本来は細川氏の家臣であった三好長慶足利義輝より相伴衆に任じられてその身分的権威をもって管領の役職を代行して幕政の実権を握り、さらに長慶の子の三好義興も任じられた。

 更にこれとは別に将軍家に近い公家が相伴衆に任じられる例があった。永正の錯乱の際に足利義澄に従って京都を脱出した日野高光、出家隠遁した冷泉為広、妻の実家今川氏に逃れた正親町三条実望は義澄の相伴衆であったという。

職制としては室町時代のみであるが、戦国時代から江戸時代初期に見られる御伽衆(おとぎしゅう)は、しばしば相伴衆とも呼ばれ、将軍(あるいは大名)に仕えた似たような役職である。

私見相伴とは、 『饗応(きょうおう)の座に正客の連れとして同席し、もてなしを受けること。または、人の相手をつとめて一緒に飲み食いをすること。また、その人。』という意味を持つことから、『ご相伴にあずかる』という言い回しが生れたと推測する。将軍のお供をした相伴衆からきていると考えてもおかしくないと思う。