ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1098話 本人が名乗った事がない・北条早雲

序文・伊勢宗瑞と名乗っていた

                               堀口尚次

 

 北条早雲 / 伊勢宗瑞(そうずい)/伊勢新九郎盛時は、室町時代中後期〈戦国時代初期〉の武将。戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。「北条早雲」の名で広く知られているが、実際は存命中には「伊勢」の姓を名乗っていた。

 伊勢氏の一族であり、号は、早雲庵宗瑞。伊勢から姓名を変えて北条を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代になってからである。後世では、一般に「北条早雲」の名で知られるが、本人自ら北条早雲と名乗ったことはなく、生前の署名も「伊勢宗瑞」や「伊勢新九郎」などであった。

 新九郎という名であることは古くから判明していたものの、諱は長らく不確定で、長氏を筆頭に、氏茂・氏盛などとも伝えられてきたが、現在では盛時が定説となっている。盛時が定説となる以前は長氏が最有力であったため、その頃に作られた小田原など各地の北条早雲の像や碑などの文では「伊勢新九郎長氏」といった名で書かれているものが残っている。

 通称は、新九郎。『尊卑分脈』では「八郎盛時」と書かれており、「伊勢家書」には文明10年に足利義尚の御供をした人物として「伊勢八郎盛時」があるため、本来の仮名は八郎であったとも考えられている。

 宗瑞は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されている。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となった。永正3年に小田原周辺で指出検地〈在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施しているが、これは、戦国大名による検地として最古の事例とされている。

 一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。しかし、近年の研究では室町幕府政所執事を務めた伊勢市を出自とする考えが主流である。1950年代に発表された藤井論文以降の資料検証に基づく研究で、伊勢氏のうちで備中国を所領とした支流であり、備中荏原荘〈現井原市〉または京都で生まれ、荏原荘の半分を領する領主〈300貫といわれる〉であったことがほぼ確定した。

私見】以前私は、北条早雲という名前から、てっきり鎌倉幕府執権の北条氏と関係がある〈血を引く〉とばかり思っていた。まった関係がないため、後北条氏として区別しているようだ。