序文・藩主は江戸定府
堀口尚次
水戸藩は、常陸(ひたち)にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。水府藩とも呼ばれる。藩庁は水戸城〈水戸市〉に置かれた。徳川御三家の一つである。
常陸は佐竹氏が豊臣秀吉によって54万5,800石の支配をそのまま認められていたが、関ケ原の戦いの際に佐竹義宣は徳川方に加担しなかったため、慶長7年に出羽久保田〈現秋田県〉21万石に減転封された。
佐竹氏の後、水戸城には下総佐倉藩より徳川家康の五男・武田信吉が15万石で入ったが、翌年に信吉は21歳で病死した。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸〈徳川頼宣〉が新たに20万石で水戸に入封する。その後、5万石の加増を受け25万石となる。
頼宣は元服した際に常陸介に叙任されているが、1609年に駿河・遠江・東三河〈駿府藩〉50万石を与えられて転封し、1619年には和歌山藩55万石に転封した。頼宣は紀伊徳川家の祖となった。
頼宣は2歳から8歳まで水戸藩主であったが、この間一度も水戸に入っておらず、駿府にて家康の膝元で過ごしたといわれている。実務は財政面を城代家老・蘆澤(あしざわ)信重が、行政面を関東郡代・伊奈忠次が執った。このことにより水戸藩は、事実上江戸幕府直轄領であったといわれてえいる。
頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳の鶴千代〈徳川頼房〉が下総下妻藩より25万石で入った。頼房以降の藩主家を水戸徳川家と呼ぶ。頼房も頼宣と同様に、幼少年時は水戸に赴かず駿府・江戸にあり、1619年に初めて水戸に入る。
水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府(じょうふ)の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたともいわれている。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられ、財政難に喘ぐこととなった。
【私見】水戸では、藩と幕府直轄の狭間で、双方の役人による年貢取立ての行き違いに端を発する「生瀬事件〈村民皆殺し~箝口令事件〉」などを発生させている。またこの二重統治のような仕組みが、幕末の「天狗党の乱」のような、水戸藩を二分する大事件への伏線という専門家もいる。権力は大きくなると派閥が生まれる。また幕府と藩の関係以外に御三家や親藩などその関係は複雑だ。