ホリショウのあれこれ文筆庫

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第379話 一条美香子の数奇な運命

序文・封建時代最期の犠牲者か

                               堀口尚次

 

 一条美賀子〈徳川美賀子〉は、幕末から明治の公家女性で、最後の征夷大将軍徳川慶喜正室。実父は今出川公久(きんひさ)〈公卿・権中納言〉、養父は一条忠香(ただよし)〈公卿・左大臣〉、正憲皇太后(しょうけんこうたいごう)〈明治天皇の皇后〉は義妹。幼名は延君(のぶきみ)、当初の諱(いみな)は省子。

 当初、徳川慶喜は関白・一条忠香の娘・千代君〈照姫〉と婚約していたが、婚儀直前に千代君は疱瘡(ほうそう)〈天然痘〉に罹患(りかん)した。そのため代役として立てられたのが延君であった。延君は忠香の養女となり、「省君」と改名、嘉永6年に婚約が調い、江戸に下向、安政2年に結納、結婚した。

 慶喜との間に女子を出産するも、すぐに夭折(ようせつ)〈若死に〉した。その後、慶喜将軍後見職となり、将軍家茂と共にに向かい、長い別居生活に入る。慶応2年に慶喜は将軍となるが、この時も慶喜は入洛中であり、省子も江戸城大奥には入っていない。

 慶応4年にようやく慶喜は江戸に戻ってくるが、それは将軍職を返上した後のことであり、慶喜はそのまま上野寛永寺、引き続き駿府宝台院にて謹慎生活に入り、省子は対面することが出来なかった。明治維新後も慶喜静岡、省子は東京の一橋屋敷という別居生活は続いた。この頃、「省子」から「美賀子」に改名している。

 明治2年慶喜の謹慎が解除され、その後に美賀子は静岡に向かい、10年ぶりに共に暮らすようになる。その後、慶喜は新村信、中根幸という側室を抱えたが、その間に生まれた子供はすべて美賀子を実母として育てられた。

明治27年に乳癌を発症し、治療のため東京の徳川家達の屋敷に移る。手術を受けるが肺水腫を併発するなど経過は思わしくなく、死去した。

 慶喜との婚約自体が代役として急遽決められたものであった上、慶喜は義祖母にあたる一橋慶壽(よしひさ)未亡人・徳信院と大変に仲が良かったため、美賀子は非常に寂しい新婚生活を送ったと言われる。

 慶喜が将軍在職時に江戸城に入城しなかったこともあって、美賀子も将軍正室でありながら一度も江戸城大奥へ入城することはなかった。辞世とされる和歌「かくはかり うたて別をするか路に つきぬ名残は ふちのしらゆき」