ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1075話 侠客「べっ甲亀」が作った榊原弱者救済所

序文・「弱きを助け」の任侠道

                               堀口尚次

 

 榊原弱者救済所は、明治32年から昭和5年にかけて、今の愛知県半田市鴉根(からすね)町にあった民間の弱者救済所。地名から鴉根弱者救済所と呼ばれることもあった。

 明治31年頃、今の半田市鴉根町〈当時・知多郡成岩町鴉根〉の丘陵地に、社会的弱者を救済する施設ができた。施設を造ったのは、榊原亀三郎という民間人。彼は23歳で救済事業に取り組んだが、それ以前は「べっ甲亀」の名を持つ侠客で、それも70名もの子分を持つ男だった

 それ慈善家に転身したのは、静岡刑務所に服役していた際の典獄(てんごく)〈刑務所長〉川村嬌一郎〈明治時代の篤志家、自由民権運動家。政治犯として入獄していた際に金原明善(きんぱらめいぜん)と出会い、後に明善とともに出所者の保護事業に参画し、近代日本における更生保護の発展に寄与した人物として知られる。〉と、日本を代表する慈善家・金原明善〈明治時代の実業家。静岡県浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。〉との出会いであった。2人に触発された榊原亀三郎は、故郷の知多郡成岩町に帰り、子分を説得して組を解散した。そして彼に付いてきた20数名の子分と共に鴉根の丘陵地を私財により開墾し、そこに弱者を救済する施設「榊原弱者救済所」を作り上げた

 以来、この救済所には、社会から見捨てられた、孤児捨て子、重度の身体障害者、行くあてのない老人。それに刑期を終えて出所しても帰るところのない出獄者や余刑者が集まってきた。また遊郭ら逃げ出した遊女など女性たちの駆け込み寺のような役目も果たしていた

 大正14年榊原亀三郎が事故死。その5年後、世相が戦争へと走り出した影響も大きく、弱者が切り捨てられたようにこの救済所も閉所された。

 その後、榊原亀三郎の偉業と救済所の存在は忘れられていたが、平成25年になり、榊原弱者救済所跡を広く一般公開しようとの動きが出て「榊原弱者救済所跡保存会」が結成され、半田市半田市鴉根区、半田保護司会、はんだ郷土史研究会の協力により活動が行われた。半田市鴉根町の「鴉根ちびっ子広場」に隣接する約450坪の竹林を開墾して「榊原弱者救済所跡公園」を造り、同年に同公園のお披露目式と記念式典が開かれ、約180名が参列した。


※榊原弱者救済所跡地・筆者撮影