ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1074話 アイヌ出身の測量技手・川村カ子ト

序文・三河と信州を結んだ三信鉄道

                               堀口尚次

 

 川村カ子(ネ)ト明治26年 -昭和52年〉は、上川アイヌの長で、日本国有鉄道の測量技手アイヌ文化の啓発・普及にも寄与した。国鉄退職後は川村カ子トアイヌ記念館の館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。弟に川村才登、妹・コヨの夫に貝澤藤蔵(とうぞう)がいる。

 なお、「カネト」の「ネ」を「子」と書いているのは、かつて使われた、カナの「ネ」の異体字である。「カネト」と書かれることもある。また、カネトアイヌの正確な発音は、長男の川村兼一によると、カネトゥカイヌである。

 明治26年旭川永山町〈現旭川市永山〉キンクシベツに生まれる。父は上川アイヌの長、7代目イタキシロマ、母はアベナンカ〈タネモンコロ〉。鉄道に憧れ、小学校を卒業すると鉄道人夫として測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、やがて測量技手試験に合格し、鉄道員札幌講習所を卒業後、北海道各地の線路工事の測量に携わった大正3年に陸軍入隊、2年後に除隊。

 アイヌならではの身体能力の高さを評価した三信(さんしん)鉄道〈現在の東海旅客鉄道JR東海飯田線の前身となる路線を運営〉に請われ、難しすぎて引き受け手のなかった天竜峡 - 三河川合間の測量をアイヌ測量隊を率いて敢行し、現場監督も務めて難工事を完成させた。なお、「日本人よりも下位の存在であるアイヌに使われるのは我慢ならん」という理由で、当時、刑務所上がりが多い土木作業員たちに現場の穴に落とされ、上から土砂やコンクリートを流し埋められながらもカネトは、「人間の道とはそういうものではない。アイヌも刑務所上がりも、人間に上下はないのだ。」と諭し、誰かが呼び現場に駆けつけた請負頭によって一命を取り留めたという。

 三河川合 - 天竜峡間は三信鉄道によって開通した。建設は天竜峡側、三河川合側の双方から進められ、最後の大嵐 - 小和田間開業でこの区間が全通したのは昭和12年である。急峻な山岳地帯を通過するルートで、非常な難工事であったが、アイヌ出身の測量師で山地での測量技術に長けた川村カ子ト等が招聘されて建設にあたり、ようやく完成した。これをもって、豊川鉄道の最初の区間が開業してから40年後、現在の飯田線である吉田〈現在の豊橋〉 - 辰野間は全通を見たのである。飯田線は元々4つの鉄道会社が運営していた路線を、国鉄が戦時買収したものだ。三信鉄道の建設時には54人もの殉職者が出ている。