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第990話 長州藩の祖・毛利輝元

序文・神格化された藩祖

                               堀口尚次

 

 毛利輝元は、戦国時代後期〈安土桃山時代〉から江戸時代前期にかけての武将・大名。安芸の戦国大名・毛利氏の14代当主。豊臣政権五大老の一人であり、関ケ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖でもある。

 天文22年、毛利隆元の嫡男、毛利元就の嫡孫として生まれた。永禄6年、父・隆元が急死したため、若くして毛利氏の家督を継承し、元服に際し、室町幕府の将軍・足利義輝より「輝」の偏諱を受けて、輝元と名乗った。

 輝元は元就と二頭体制を敷いて領国の統治にあたり、元就が死去すると、親政を開始した。その間、尼子氏を滅ぼしたほか、尼子氏残党の蜂起、大内輝弘の乱、大友氏との戦いなどに対しては共同で対処し、領国の維持に努めている。

 豊臣政権下において、輝元は秀吉の信任を得て、徳川家康前田利家と同じく、五大老として重きをなした。また、中央に関わりつつも、領国経営にも力を入れ、広島城を築城したほか、輝元出頭人と呼ばれる側近集団を整備し、自己を頂点する支配体制の構築を目指した。そして、慶長5年に石田三成が挙兵すると、輝元もこれに呼応して、西軍の決起に加わった。輝元大坂城に入城し、諸将に西軍の総大将として推挙され、軍の指揮を取った。輝元は養子・秀元を大将とする毛利勢を関ヶ原に送ったほか、四国や九州にも軍勢を展開した。だが、輝元が関知しないところで、吉川広家らが東軍に内通し、毛利勢の本戦への不参加を条件に、毛利氏の所領安堵を約していた。そして、関ケ原の戦いでは、広家や小早川秀秋の裏切りにより、南宮山に布陣していた毛利勢は本戦に参戦できずに傍観するのみとなり、西軍は敗北した。

 敗戦後、輝元は家康の説得を受け入れ、所領安堵と引き換えに大坂城を退去した。だが、輝元が西軍総大将として積極的に軍勢を指揮してきたことが発覚したため、家康は約束を反故にし、改易されそうになった。結局、広家らの尽力もあって、改易は免れたものの、祖父以来の領地の多くを削られ、周防・長門の2か国を領するのみとなった。

 輝元長州藩の藩祖として、元就や隆元、秀就とともに顕彰され、神格化の対象とされた。藩祖に関わる由緒は、歴史認識として長州藩藩士らに受容されたと考えられる。明治時代に創建された志都岐山神社において、輝元は元就や隆元らとともに祭神として扱われている。