ホリショウのあれこれ文筆庫

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第710話 海賊大名・九鬼嘉隆

序文・水軍武将

                               堀口尚次

 

 九鬼嘉隆(くきよしたか)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の11代当主。

 志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、志摩国を支配して3万5000石の禄を得た。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ケ原の戦いで西軍に与し、戦後家康に許されたが、答志島で自害した。

 慶長5年、関ケ原の戦いが起こると嘉隆は西軍に与し、嫡男守隆は東軍に与した。これはどちらが敗れても家名を存続させるための嘉隆の戦略だったという。嘉隆は守隆が徳川家康に従って会津征伐に赴いている間に、堀内氏善(うじよし)らと共に守備が手薄になっていた鳥羽城を奪取。伊勢湾の海上封鎖を行い、8月24日の安濃津(あのつ)城の戦い〈関ケ原の戦いの前哨戦の一つ〉の勝利に貢献するが、9月15日の本戦で西軍が壊滅すると、鳥羽城を放棄して答志島に逃亡した。

 家督を受け継いだ守隆は、徳川家康と会見して父の助命を嘆願し、守隆の功績の大きさが考慮され了承されたが、守隆の急使がそれを嘉隆に伝える前に、九鬼家の行く末を案じた家臣の豊田五郎右衛門が独断で嘉隆に切腹するよう促し、これを受け入れた嘉隆は10月12日に和具の洞仙庵で自害した。享年59。

 嘉隆の首級(しゅきゅう)は首実験のために家康のいる伏見城に送られたが、その途中で伊勢明星において守隆の急使により確認される。守隆は激怒して豊田を鋸挽きの上で斬首した。首級は伏見城に運ばれたため、守隆により胴体のみが洞仙庵近くに葬られ、胴塚が建てられた。首級は実検の後に答志島へ戻り、胴体とは別に築上(つかげ)山頂に葬られ、首塚が建てられた。現存する胴塚は守隆が建てたままではなく、寛文9年に孫の九鬼隆季(たかすえ)が再建したものである。

 海賊の大将として荒々しい人物のイメージが強いが、茶道に造詣が深く、津田宗及(そうぎゅう)の茶会にしばしば参加したり、逆に自身が宗及を招いて幾度も茶会を催すなどしており、数寄者(すきしゃ)〈芸道に執心な人物の俗称〉としての側面もあったようである。

 鳥羽城跡の城山公園では、「しろやま嘉隆まつり」が開催されている。