ホリショウのあれこれ文筆庫

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第709話 野口雨情の哀愁

序文・カラスの勝手でしょ

                               堀口尚次

 

 野口雨情(うじょう)明治15年 - 昭和20年は、詩人、童話・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋西條八十(やそ)とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。

 本名・野口英吉。廻船問屋を営む名家〈楠木正季(まさすえ)が先祖と伝えられているが不明〉の長男として茨城県多賀郡磯崎町〈現・北茨城市〉に生まれる。

 明治37年、父の事業失敗と死により故郷に帰り家督を継ぐ。このとき、家の没落をふせぐために家族〈つまり亡父や親族〉から栃木県の資産家の娘である、同い年〈23歳〉の高塩ひろとの政略結婚をお膳立てされており、英吉は結婚するが、もともと気の進まない話で、後年破綻する。

 この頃酒におぼれたというが、詩作にも打ち込み、朝餐会などで発表していた。雨情」の号を名乗ったのもこの頃である。明治38年処女民謡詩集『枯草』を水戸から自費出版。しかし反響は得られなかった。

 『小樽日報』を首になったちょうどそのころ、妻は女児みどりを出産したが、この子は一週間ほどで亡くなった。のちの『シャボン玉』はこのとき夭折(ようせつ)した娘のことを歌っているとされるが、根拠がないとする説もある。

 「七つの子」の原型は、明治40年出版の月刊詩集「朝花夜花」に収められていた「山烏」という詩で、大正10年に改作し、発表したのが童謡「七つの子」です。「七つ」の解釈は、7歳の子供という説や7羽という説があり、今でもはっきりしていない。雨情は、著書の中で「この歌詞中に丸い眼をしたいいこだよと歌ったところに童謡の境地があることを考えてください。童謡の境地はいかなる場合にも愛の世界であり、人情の世界でなくてはならないのであります。」と述べている。

『烏 なぜ啼くの 烏は山に 可愛七つの 子があるからよ
可愛 可愛と 烏は啼くの 可愛 可愛と 啼くんだよ
山の古巣に 行つて見て御覧 丸い眼をした いい子だよ。』

 天国で、志村けんと野口雨情は出会っているだろうか。さすがに、志村けんも雨情の前では「烏の勝手でしょ~♪」とは歌えないだろうに…