ホリショウのあれこれ文筆庫

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第113話 西郷隆盛の改名と妻と島流し

序文・数回の改名、三人の妻、三カ所への島流し。まさに波乱万丈。

                               堀口尚次

 

 幼少は西郷小吉といった。元服西郷吉之介隆永と名乗る。「伊集院須賀と結婚」。薩摩藩藩主・島津斉彬に取り上げられた頃、西郷善兵衛と改名する。その後、西郷家の家督を継ぎ、西郷吉兵衛へ改める。

 西郷は、島津斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照尊王攘夷派の僧侶〉らに説得されて斉彬の遺志を継ぐことを決意した。安政の大獄により幕府による尊王攘夷派の捕吏の追及が厳しくなった。

 西郷は、捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。西郷に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを日向国(現在の宮崎県)へ追放すること(これは道中での斬り捨てを意味していた)に決定した。日向へ向かう西郷は、月照と共に乗船したが、前途を悲観して、沖で月照とともに入水した。すぐに救助されたが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生したが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、見抜かれなかった。

 藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにし、菊池源吾と変名させた島では空家を借り、自炊した。「島の娘・とま(のち愛加那と改める)を島妻とした」。

 薩摩藩国父(藩主の父・実質の支配者)島津久光が、大久保利通らの進言で西郷に召還状を出したので、戻れることになった。生きていることが幕府に発覚しないように大島三右衛門〈大島に三年住んでいたという洒落という説あり〉と改名した。

 久光に召された西郷だが、久光が無官(藩主でない)で、斉彬ほどの人望が無いことを理由に上京すべきでないと主張し、また、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ(地ゴロは田舎者という意味)」なので周旋(しゅうせん)〈公家や幕との交渉〉は無理だと言ったので、久光の不興(ふきょう)〈目上の人の怒りに触れてとがめを受けること〉を買った。一旦は上京の同行を断った西郷だが、大久保の説得で承諾し、旧役に復した。島津久光から下関で待機する命を受けてたが、京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷は、大坂へ向けて出航してしまい、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みた。しかし、姫路に着いた島津久光は、西郷が待機命令を破ったこと、西郷が志士を煽動(せんどう)していると報告を受けたことから激怒し、西郷らの捕縛命令を出した。捕縛された西郷らは、鹿児島へ向けて船で護送され、大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島された。これを知った島津久光は、家老たちが徳之島へ在留という軽い処罰に留めている事を知り、沖永良部島への島替えのうえ『牢込めにし、決して開けてはならぬ』と厳命したという。

 再度、赦免召還された西郷は、西郷吉之助に名を改め「岩山イト(絲子)と結婚した」。

 西郷の諱(いみな)=実名 は隆永(たかなが)であったが、明治政府樹立の功で正三位(位階)が送られる際、その文書には諱を書く必要があったが西郷は箱館戦争を終えて薩摩に帰る船に乗っていたため、政府の役人らはいつもは西郷を吉之助と呼んでいたため思い出せず、頭に浮かんだ隆盛を政府側に伝えて文書が作成されたがそれは西郷の父、吉兵衛の諱だった。この経緯から西郷は、西郷隆盛として正三位が贈られて以降、その名を使った。

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沖永良部島での西郷