ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第20話 土佐脱藩浪士・坂本龍馬の活躍

序文・リクエストもあり、あまりにも有名な人物を取り上げました。

諸説あり、なぞの多い人ですが人々を引き付けて止みません。

                               堀口尚次

 

 幕末で坂本龍馬ほど有名な人物も居なかろう。またドラマなんかでもカッコイイ俳優が演じる事が多く、銅像なんかもスマートな立ち姿だ。

 実際にどんな事をした人かというと、なかなか説明できない人も多いという。一番に思い当たることと云えば、日本史の教科書でも説明されてる「薩長同盟」の立役者と云う事であろうか。貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中のちの海援隊」を発足させ、徳川幕府大政奉還に導いた「船中八策(新国家体制の基本方針を起草した策・文)」の起案者だという説もあるが、定かではない。

 土佐藩脱藩後は江戸に行き、開国論者の勝海舟を斬ろうとしたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬は大いに感服し、己の固陋(ころう・古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと)を恥じてその場で弟子になったという。この時期龍馬は、長州の久坂玄瑞高杉晋作らと交流している。また幕府政治総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽にも拝謁を果たしている。

 更には、幕府施設の「神戸海軍操練所」設立の為に、勝海舟の下で奔走している。幕府の姦吏(かんし・不正をはたらく役人)に強い危機感を抱き「日本を今一度洗濯いたし申し候」と述べている。

 薩長同盟は、犬猿の仲だった(禁門の変蛤御門の変では敵味方の関係)薩摩藩西郷隆盛長州藩桂小五郎(後の木戸孝允)を仲介したのが、龍馬であったが、諸説あり同じ土佐脱藩浪士・陸援隊の中岡慎太郎の功績が大きいという説もある。

 この後、土佐藩薩摩藩と「薩土討幕の密約」を結ぶが、土佐藩としては「公議政体論(議会制度を導入して合意を形成することによって日本国家の意思形成及び統一を図ろうとする政治思想)」を推し進めていたため、その後一旦成立した「薩土盟約」も解消し、将軍徳川慶喜大政奉還建白書を提出する。

 龍馬は京都で、薩長との関係が深く、尊王攘夷派との関わりも強いことから、

幕府会津藩配下で尊王攘夷派の取締を任務としていた、「新選組」や「京都見廻組」に警戒されており、遂には暗殺されてしまう。世に云う「近江屋事件」だ。

 最後に、龍馬が残した名言に「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞしる」があるが、世の中の人が自分の事を分っていなくとも、己が自分を理解していればそれで良いという意味だ。自由奔放で、他人から理解されることが少なかった坂本龍馬だからこその名言ともいえる。

 享年31歳。墓所は、京都霊山護国神社にあり。高知県護国神社靖国神社にも祀られている。高知県桂浜の銅像が有名だ。(※画像参照)

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