ホリショウのあれこれ文筆庫

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第381話 清河八郎がやろうとしたこと

序文・ミイラ取りがミイラになってしまった

                               堀口尚次

 

 清河八郎は、庄内藩出身の志士。九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、自らも虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。

 江戸に出て清河塾を開設するが、当時江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった。安政2年、善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大坂、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、江戸、日光などをめぐる諸国漫遊の旅をする。

 安政7年に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕尊王攘夷の思想を強める。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。その中には幕臣の山岡鉄太郎〈鉄舟〉、薩摩藩の益満休之助らがいる。同年、盟主として虎尾の会を結成。発起人は山岡鉄太郎ら15名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画を立てたが、この密計が幕府の知るところとなり、幕府に追われる立場となった。

 倒幕運動を続けるため、京に潜伏したり諸国を回り、九州遊説に入った。福岡藩士の平野国臣(くにおみ)〈倒幕運動・生野(いくの)の変首謀〉らの尊皇攘夷派とも接触

 その後、山岡鉄舟らを通して松平春嶽〈幕府政治総裁職〉に急務三策〈1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育〉を上書する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、旗本・松平忠敏のもとに浪士組結成が許可された〈234名〉。上手く幕府を出し抜いて、今度は佐幕派を京に集め出した。文久3年、将軍徳川家茂上洛の際、その前衛として浪士組を率い京へ出発。到着した夜に浪士を壬生(みぶ)新徳寺に集め、本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。これに対し、芹沢鴨近藤勇土方歳三らが離反、袂を分かった。翌日、200名の手勢を率い朝廷に建白書の上申を願い出で、幸運にも受理された。

 このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は、浪士組を江戸へ呼び戻す。江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。その後八郎は、幕府の刺客によって麻布赤羽橋で首を討たれた。死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりとした。

 幕府を欺いて浪士組を誘導したが、結局その幕府に討たれた皮肉な運命だ。