ホリショウのあれこれ文筆庫

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第573話 天誅組と刈谷藩

序文・勤皇と佐幕の狭間で

                               堀口尚次

 

 天誅(てんちゅう)組は、幕末に公卿・中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。その活動は文久3年8月17日の大和国五條代官所討ち入り〈挙兵〉から、幕府の追討を受け転戦してのち、同年9月24日~27日大和国東吉野村で多くの隊士が戦死して壊滅するまでの約40日である=天誅組の変

 松本奎堂(けいどう)は、幕末の志士。通称謙三郎、名は孟成、衡。字は士権。奎堂は号。別の号に嬬川、洞仏子がある。三河国刈谷藩士の子に生まれ、江戸の昌平坂学問書で学び俊才として知られた。強い尊王の志を持ち脱藩して私塾を開き尊攘派志士と交わった。孝明天皇大和行幸の先駆けたるべき天誅組を結成して大和国で挙兵吉村寅太郎〈土佐脱藩〉、藤本鉄石〈岡山脱藩〉とともに三総裁の一人となった。だが、八月十八日の政変で大和行幸は中止となり、孤立した天誅組幕府軍の攻撃を受けて敗退し、松本も戦死した。

 宍戸弥四郎は幕末の志士。諱は昌明、号は道一軒。天保4年、刈谷藩士宍戸弥助昌寿の六男として刈谷に生まれる。天誅組三総裁の一人松本奎堂とは竹馬の友である。この二人は譜代藩出身の勤皇志士という点で異色の経歴である

 江戸在番のおり、窪田清音の門人として山鹿流兵法を学ぶ。生来豪放磊落(ごうほうらいらく)で、顔は疱瘡の跡が残るあばた面であったが笑うと愛嬌があり、皆から好かれる性格であった。また小柄であったが、極めて頑強な身体と脚力を持っていた。文久3年、天誅組終焉に際して、主将・中山忠光らの本隊を逃すためにおとりの決死隊の一員となり、那須信吾らとともに東吉野村鷲家口で彦根藩の軍勢の中に斬り込んだ。非常な奮戦をみせ、中山忠光の脱出を成功させたが、戦闘中に鷲家川の急流に転落。再び岩壁をよじ登りはじめたところを彦根藩銃撃隊の一斉射撃を浴び戦死した。年31。墓所刈谷の松秀寺。胴衣の中には埋葬代としたためて、肌付き金小判十両が縫い付けてあった。幕末の志士の中でも出色の武士道を体現した最期であった。明治31年従四位を追贈された。

 私は過日、現在の愛知県刈谷市に点在する史跡を訪ねた。尊皇攘夷の志高く天誅組に散った命だったが、勤皇の信念を貫いた生き方を偲んだ。幕末の刈谷藩では、倒幕か佐幕か藩論は統一せず、家老三人が惨殺されるなど混乱をきわめていた。