序文・組織を維持するための血生臭い歴史
堀口尚次
「第61話・新選組と袂を分かちた新徴組」でも取り上げたが、今回は新選組に焦点を合わせて、その成り立ちと粛清の歴史を記す。幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊皇攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。
江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意〈将軍上洛の護衛ではなく尊皇攘夷だった〉を知った近藤勇〈農民出身・剣術道場試衛館主宰〉や芹沢鴨〈水戸藩浪士〉らが反発して脱退。芹沢・近藤ら17人の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。壬生浪士組の始まりである。
同様の配下の京都見廻組が幕臣〈旗本・御家人〉で構成された正規組織であったのに対して、「壬生(みぶ)〈京都の地名〉浪士組」はその多くが町人・農民出身の浪士によって構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。
新選組の隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、最盛時には200名を超えた。京都で攘夷派の弾圧にあたった。商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。壬生浪士組の筆頭局長だった芹沢鴨も粛清された。芹沢の所業の悪さから、朝廷から芹沢の逮捕命令が出ており、会津藩は壬生浪士組に、芹沢の所置を命じたと言われる。その後、壬生浪士組は「八月十八日の政変〈長州藩を朝廷から排除したクーデター〉」の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝送(ぶけでんそう) 〈幕府との連絡役の公家〉から賜ったという説と、会津藩主・松平容保から賜ったという説の2つがある。こうして京都守護職の松平容保の庇護(ひご)のもと「新選組」として発足した。
この後、新選組は池田屋事件・禁門の変などで活躍し、第二次の隊士募集を行うことになり、江戸から伊東甲子(かし)太郎らの一派を引き入れることに成功、これらの活動により新選組は200名まで増強され、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。ところが伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから「御陵衛士〈天皇陵を守る隊〉」を結成して脱退。そして新選組は幕臣に取り立てられた後、御陵衛士を襲撃し伊東らを暗殺する。幕府の非正規組織で始まった新選組は「尊攘の志士との戦い」と「組織内粛清」の歴史だった。